古往今来

2025(令和7)年1月

 

 

2023(令和5)年の4月から9月に放送されたNHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公は、神木隆之介と浜辺美波が演じる牧野富太郎と牧野寿衛(すえ)でした。
 日本における植物学は明治半ばから始まりました。この時期には分類学が中心で、ドイツのP.シーボルトらによる採集と標本作製を受けて標本室(ハーバリウム)を構築することが目標であり、次いで明治後期から大正期には植物の生理・形態・解剖・生態などの領域へと展開しました。
 植物学者として知られる牧野富太郎は、50代前半まで東京帝国大学にあって新種の記載を盛んに行い、第一線の研究者として雑誌『植物学雑誌』などに研究成果を発表しました。また、後半生は、標本収集と洋の東西を問わず渉猟した知識の普及、学校教員の養成、全国の植物趣味者・研究家との協働、そして自身の名を冠した植物図鑑の刊行などで特徴付けられます。
 1916(大正5)年には雑誌『植物研究雑誌』が創刊され、同誌について牧野は「いわば私の道楽だった」と書いています。『植物学雑誌』が学術誌的になり、外国語論文が増えた一方で、『植物研究雑誌』は牧野にとって関心の向くままに書いた内容を発表することができる場でした。

 長野菊次郎は1868(明治元)年に筑前国筑紫郡警固(けご)村(現・福岡市中央区)に生まれ、福岡県尋常中学校修猷館(現・福岡県立修猷館高校)に学びました。1888(明治21)年に学力検定により小学校教員免許状を取得し、同年に糟屋郡箱崎(現・福岡市東区)の高等小学校に赴任しました。次いで1897(明治30)年に教員検定試験によって植物科の尋常師範学校中学教員免許状を取得し、同年には大阪府の中学校教諭となりました。さらに、1899(明治32)年に動物科生理科の師範学校中学校女学校教員免許状を取得し、1900(明治33)年に岐阜中学校の教諭となったのです。
 その後、東京府の中学校を経て1904(明治37)年にアメリカとカナダに留学し、1907(明治40)年に帰国すると同年に名和昆虫研究所附属農学校の教諭となりました。1911(明治44)年には同研究所技師となりましたが、1919(大正8)年に若くして亡くなりました。

名和昆虫博物館の記念昆虫館と「昆蟲碑」
 (岐阜市大宮町、令和3年1月・撮影)

 

長野の業績としては、『植物学雑誌』の「筑前國中央部植物分布の状態」(東京植物学会の懸賞課題応募論文で銀牌を受賞)、『植物研究雑誌』の「如何ナル昆虫ガ梅ノ花ヲ媒助スルカ」などを挙げることができます。
 牧野の1917(大正6)年の日記には、牧野が長野の自宅を訪れて晩餐のもてなしを受けたことが記されています。長野が『植物学雑誌』や『植物研究雑誌』にも寄稿していることからも、牧野との間に交流があったと考えられます。名和昆虫研究所には東京帝国大学動物学教室から多くの学生が学びに来ており、技師として勤務した長野は、鱗翅目(りんしもく)を中心に昆虫の研究を行いました。しかし、それも短く終わりました。

 長野が岐中に在職したのは東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校附属中学校)の授業嘱託となった1903(明治36)年までと考えられます。その間の1901(明治34)年に岐阜県岐阜中学校は「岐阜県立岐阜中学校」へと校名が変わり、1903年には鶯谷の高等小学校女子部の二階で1900年に開校した岐阜市立高等女学校は北野町にできた新校舎に移転して「岐阜県立岐阜高等女学校」となりました。
 日清戦争から日露戦争へと至る時代で、学校にも時折嵐が吹きました。『岐高百年史』からこの時期の記述を拾います。

〔明治33年〕  四月三〇日、中学校にようやく電灯がともった。(中略)初めて文明の光がさし込んで来た。主に寄宿舎を中心として舎監室、そして御真影と勅語を奉護するために設けられた宿直室、寄宿舎廊下、学校正門前(従来はここにランプ灯があった)などの四〇灯である。
 五月一三日、中学同窓会を濃陽館でひらく。この同窓会は従来のものとは別派のもので、同窓会に二派ができた。この方がのち優勢になっていくのだ。(202㌻)

 この年の5月26日、講談部例会が行われ、生徒の弁論に続いて長野が「師弟論」を述べました。これに野次が飛んだことに対して教頭が注意し、校長が血気に逸る生徒を諫める話をしたことが記されています。(202㌻)
 1902(明治35)年3月には岐阜県立岐阜中学校、岐阜県師範学校、岐阜県立農学校を対象にした実弾射撃場取締規則を岐阜県が策定し、5月には三校共有の射撃場ができました。実弾射撃場取締規則の第二条には「射撃場ハ稲葉郡上加納村字上加納山附近天然丘阜ニヨリ設置シ、射撃ハ北長森村字旭見ケ池及尼ケ崎附近ニ設置ス」とあります。この場所は鶯谷トンネル東口の北にあたり、1908(明治41)年に陸軍歩兵第六八連隊の日野射撃場ができるまで使われました。

参考文献
「岐高百年史」清 信重著(1973年)
牧野富太郎伝に向けた覚書き、大場秀章、分類、第9巻1号、3~10(2009)
明治の植物標本-長野菊次郎の植物標本の発見、林 蘇娟・初見真知子、分類、第13巻2号、109~117(2013)
「牧野富太郎の植物学」田中伸幸著(NHK出版、2023年)


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