トップを目指せ!
女子サッカー界の第一人者で、日本代表としてアトランタ五輪に出場した東明有美、
南極北極を冒険し、八〇歳でエベレスト登頂を試みた三浦雄一郎を現地で取材した山岳専門記者、近藤幸夫、
FC 岐阜のスポーツドクター、山賀 篤が、
岐阜のテクノロジーを牽引するベンチャー企業代表の東明 裕をMCとして、
コロナに負けない熱い岐高魂をぶつけます。
東明裕 司会を務めます。昭和六三年卒業です。文武両道とはいきませんでしたが、「武」の方は多少はよかったかと。令和三年度同窓会総会副運営委員長を務めています。
山賀 平成一〇年卒業です。岐阜市内で整形外科を開業しています。岐高生もスポーツのけがで受診することがあります。スポーツドクターとして、サッカーJ3・FC岐阜の選手のサポートをしています。
近藤 昭和五三年卒業です。現在は朝日新聞長野総局で山岳専門記者をしています。主に大阪本社、名古屋本社、東京本社の運動部で山岳、冒険を担当してきました。イエティ(雪男)捜索隊に同行取材した経験もあります。ヒマラヤは田部井淳子さんや三浦雄一郎さんの登頂を取材しました。オリンピックは日本人選手のメダル獲得などの号外作りに携わりました。相撲、ラグビー、ボクシングなど格闘技も専門です。
東明有 平成三年の卒業です。サッカーを始めたのは、今回、司会を務める三歳違いの兄、東明裕が先にやっていて、小学校一年生の時自分もやってみると、すごく楽しくって。いまでこそ、なでしこジャパンが活躍し、女子サッカーが当たり前の時代になりましたが、当時はサッカーをする女の子はいなくて、男の子の中に入って練習しました。頑張って続けられたのは、追いつけない兄の存在や両親の理解があったからです。アニメ「キャプテン翼」の影響も大きかったです。いまも仕事でサッカー関係者に会う機会がありますが、一番うれしかったのは、キャプテン翼の作者、漫画家高橋陽一さんにお目にかかれたことです。サッカーを続ける中で、どれだけキャプテン翼に励まされてきたか。私のバイブル的な存在です。
中学生になると、学校の部活動に女子サッカーがないという問題にぶつかりました。今もこの問題は続いていますが、私の場合は県サッカー協会、そして両親が動いてくれ、今も現存するチームの先駆けを作ってくれました。足りない人数は母親やその友達が入り、そんな支えがあって、中学校でもサッカーを続けることができました。
高校に進学する時、実は両親から岐阜高校に行くことを反対されていました。女の子なので、県内トップの高校に行く必要はないと。でも私は兄の背中を見て育っていたので、兄が通う高校に行きたいと説得して岐阜高校に入学しました。一年生の時、私が所属することになる「プリマハムFCくノ一」(現・伊賀FC)から誘いを受けました。一九八八年のことで、翌年にアマチュアの日本女子サッカーリーグがスタートしました。両親からは、せっかく岐阜高校に入ったので学業を中心にと反対されましたが、学業には支障を来さず、サッカーも全力でやるということで、半年かけて了解を得ることができました。
高校一年の冬から、サッカーの練習のために三重県伊賀市まで通う生活が始まりました。学校が終わるのが午後三時で、母親に車で岐阜駅まで送ってもらい、午後三時三三分発の電車に乗り、伊賀市の練習場に着くのが午後七時ごろ。電車の中で勉強をして、練習に参加する生活を二年半続けました。私はサッカーをやりたいばっかりで、つらいと思ったことはなかったです。でも、両親やコーチに車で送迎してもらうなどサポートがなければ続けられなかったので、本当に感謝しています。学校生活では先生やクラスメートに支えてもらいました。担任の先生には学業とサッカーを両立していけるように、勉強面で助けてもらいました。クラスメートは「東明はサッカーしているんでしょう、すごい」と応援してくれました。皆さんに支えられて、二四歳の時にアトランタ五輪の日本代表として出場することができました。文武両道を掲げる岐阜高校の一員としてスポーツの分野で、母校に貢献できたのかと思っています。
東明裕 山賀さん、近藤さんからも高校時代の思い出、スポーツへの思いを聞かせてもらえますか。
山賀 高校では硬式テニス部に入ったのですがすぐに辞めてしまい、実は運動らしい運動はしてきていないんです。大学に進学してからスキー部に入り、スキーが楽しくて今も続けています。自分がやる運動はそれぐらいです。スポーツドクターをしているので、クリニックにはいろいろなジャンルの運動選手が来てくれるので、競技ではどんな動きをするのか、練習は何をしているのか、選手に話を聞きながら関わっています。スポーツ観戦は好きなので、仕事でもスポーツに関われてうれしいです。
東明裕 FC岐阜のスポーツドクターをしているんですよね。
山賀 二年前に父から引き継ぎ、FC岐阜のチーフドクターをしています。スポーツドクターはテレビで見ると鞄を持って負傷した選手の現場に向かう華やかな場面が注目されますが、実際にはほかのことも大変で。選手やスタッフ、家族の健康管理に携わること、ドーピング禁止薬物は市販の風邪薬やサプリメントにも入っていることもあるので、選手が知らずに使ってしまうことがないよう注意を払うなど、裏方の仕事が結構大変です。
近藤 岐高生は皆、高山市奥飛騨温泉郷にある「林間学舎」に宿泊して西穂高岳の独標まで登山するんですが、それで山が好きになって信州大学に進学しました。朝日新聞社の最初の赴任地が富山支局で、北アルプス立山連峰など山岳関係の記事をよく書きました。
ヒマラヤには五回ほど行きました。世界最高峰のエベレスト(標高八八四八メートル)は、登山家の故田部井淳子さんが一九九九年に、二四年ぶりに環境調査隊を率いて現地調査を行った際に同行取材しました。二〇一三年、冒険家三浦雄一郎さんが八〇歳で世界最高峰エベレストへの三度目の登頂を目指した時も、ベースキャンプから三浦さんの挑戦の様子を伝えました。多分、日本で一番山岳や冒険に詳しい記者だと思っています。
五輪開催中には東京本社などで、選手が入賞した際の号外作業に関わりました。だから五輪の知識は必要で、五輪憲章は読み込んでメダルの数とかルールに詳しくなりました。新聞記者は、現場に立ってこそなんですよね。そして、選手の気持ちにどこまで寄り添えるか。選手とイコールのことは絶対に書けないんだけど、どこまで迫って本音を聞き出せるかってところが勝負なんです。
東明裕 五輪で日本の代表選手として闘うプレッシャー、精神的な心持ちを聞いてみたいですね。コロナ禍で東京五輪は一年延期され、選手たちは今も大変な思いをしていると思いますが、四年に一度の五輪に向けて、どんな思いで本番に向けて調整しているのか。それは代表になった人にしか分からないと思うので。
東明有 一九九六年のアトランタ五輪までは、女子サッカーは正式種目じゃなかったんですよ。ただ、アトランタ五輪から女子サッカーが正式種目になるかもと言われていたので、選手の目標にはなっていました。私は一九九三年に日本女子代表に選出され、一九九五年と一九九九年の女子ワールドカップにも出場しています。自分の中では、アトランタ五輪も他の国際大会と位置付けは変わらず、日本代表という意識でいましたが、五輪代表になった時の周りの反応がすごくて。それで、五輪ってすごい大会なんだと改めて思いました。選手としては、国際大会の代表選考に毎回選ばれたいと、その都度、全力で挑んでいました。なので国際大会の延長線、選手としての活動の積み重ねの先に五輪があるという意識でした。
近藤 二〇〇五年度に陸上の為末大選手が、朝日スポーツ賞を受賞した時の記事にも書いたのですが、彼が言ったのは「負けてから何を学ぶか」っていうこと。四年に一度の五輪で、陸上だったら、何分何秒の世界で最高のパフォーマンスを出さなきゃいけない。それに四年かけていて、言い訳は通用しない。駄目だったら次の四年後に挑戦か、引退か、ものすごく厳しい世界なんですよね。
東明有 確かにそういう厳しさはありますね。今、仕事として企業向けに、パフォーマンスをどう上げるという研修をやっているんですが、四年に一回とか、一年に一回、この日に絶対勝たなきゃいけないっていう厳しさはスポーツの世界にはありますが、逆に言うと目標設定はしやすい。嫌でも、目標が必ず迫ってくるので。でもビジネスの目標って、ややもするとファジーになりがちで、設定を一からやらないといけない。スポーツとビジネスでの目標設定の違いは、社会に出てから、すごく感じています。
東明裕 スポーツドクターとして、選手が試合で最高のパフォーマンスを発揮できるようにと、どんなアドバイス、サポートをしていますか。
山賀 FC岐阜では、シーズン中にはいくつもの試合があって、一年に一回のこの日に合わせるというよりも、毎試合、毎試合にベストが出せるコンディション作りのサポートに努めています。五輪に関して言えば、マイナースポーツにとっては、やっぱり五輪はすごく重要です。結果によって、その後の世間の認知度、サポートも変わってくるので。サッカーなどの団体競技よりも、陸上とかの個人競技の選手の方が、五輪に焦点を合わせて結果を出す、という思いは強いのではないでしょうか。
東明裕 プレッシャーに打ち勝つ方法って、あるんでしょうか。
近藤 一九九二年のバルセロナ五輪二〇〇m平泳ぎ金メダリストになった岩崎恭子さんは、出場当時、他の選手の方が注目されていて、何のプレッシャーもなくて、決勝に進めればいいと思っていた。それが当時の五輪新記録まで出しちゃって。その後はプレッシャーが掛かって、思うような結果が出なかった。当時は中学二年生で、のびのびと実力が発揮できたんでしょうね。究極のパフォーマンスをやってしまったわけですよ。
東明裕 今もコロナ禍にありますが、昨年は中止になった岐阜高校の同窓会総会を今年は何とか開催しようと、われわれも努力をしています。東京五輪もこの夏の開催に向けて、厳しい環境の中で動いていると思うのですが、コロナに打ち勝つためとか、こういう難しい状況の中で生きていくために、スポーツ選手はどんな心構えで動いているのでしょうか。私たちは、それをどうサポートしていけるかを考えたい。
山賀 新型コロナの変異株は、感染力が一・八倍高まったとも言われています。感染症対策に関しては、万全の体制で五輪開催になるとは思いますが、何カ国の選手が来るのか、観客は入れられるのかなど、定まっていない部分も多い。新型コロナ感染症の状況によっては、予選ができない国もあると思います。そうなると、その国で一番強い選手が代表となっているのかという話にもなる。いろいろな意味で今までの五輪とは違う形にはなってくるのでしょうね。ですが、出場する各国の代表選手は、全力を尽くして競技に挑むと思います。われわれにできることは、一生懸命にアスリートたちを応援することです。
東明有 選手は今日をいかに頑張るかを考えていて、その積み重ねの先に五輪があって。今、自分ができることを精いっぱい続けるしかない、そんな心境なのかと思います。逆に、山賀先生はFC岐阜に関わっていますが、Jリーグは今シーズン、予定通りに開幕できましたよね。東京五輪開催の議論が続く中、選手はどんな受け止めをしているんでしょうか。
山賀 選手たちの雰囲気が、そんなに大きく変わっているという感じはしていません。でも昨シーズンは、三月の開幕が、新型コロナの影響で三カ月半遅れとなりました。コロナ禍の前でも、重症のけがをした選手は治療の間サッカーが出来ず、自分と向き合うことで今までの自分を見つめなおす機会になったという声はよく聞きましたが、今回の活動休止の間、各選手は同じような理由で、自分と向き合う期間が増えたと思うんですよね。今まで当たり前にサッカーをやれていたことが、これだけ長くできなかったというのは、選手にもない経験で。サッカーがやれていることは当たり前じゃないって、感じた選手は多いと思います。
残念ながらFC岐阜でもクラスター(感染者集団)が出て、活動停止、試合も中止となる事態になりました。そうなると、本当は選手ファーストでやらしてあげたいのですが、メディカル側としては、感染症対策について、うるさいことを言わなくてはいけなくなる。他のチームにも迷惑をかけることになるので。どこまで選手のやりやすいようにやらせてあげられるのか。一番苦労しているところで葛藤はあります。
近藤 試合ができる、競技ができる選手の喜びは大きいですよね。それはスポーツに限らず、どんな分野もです。昨年のコロナ禍を経験して、われわれは多くのことを学んだ。だから、みんなが、どんな対策を講じればいいのかが分かってきている。その違いは大きい。
東明裕 東京五輪が延期となりました。もしも、自分がその立場だったら、選手として、どんな心境だったと思うか。
東明有 自分が置かれている環境によっても違うと思います。二一歳で初めて日本代表に選ばれましたが、予選で負けてしまったシドニー五輪の時は三〇歳近かったんです。自分の集大成と思っている試合で、延期となると受け止め方も違ってくるのではないでしょうか。そもそも一年も、パフォーマンスを保つのはどの選手にとっても大変なことです。新型コロナが流行して一年後に延期となった時に、希望的に一年後を見られるか、悲観的に一年後を見るという最初のポイントで、実は勝負が決まっているのかもしれないですよね。
東明裕 最後になりますが、岐高生たちも、コロナ禍で不安を抱えながら学校生活を送っていると思うんですが、後輩にエールを送ってください。
山賀 私たちもコロナの影響を受けていますが、生徒たちは入学式や部活動ができなかったりと、従来の学校生活が送れずに大変な思いをしてきました。その中でも、工夫を凝らし、後輩たちは学業や部活動に頑張ってきています。私が診察する子たちによく言っているのは、自分の体に興味を持ってほしいということ。体のどこがどうすると痛くて、治すためにどんな手入れをすれば良いのか。岐高生たちは、それが自分でできていて、賢い生徒たちが多い。学業もスポーツも頑張ってほしい。スポーツドクターとして、それをサポートしていきたいと思っています。
近藤 岐阜高校だと、部活も大事だが、受験の存在が大きいと思う。大学受験は一年生で言えば、三年先の何月何日に受験があるのか。オリンピアのパフォーマンスではないが、それに向けて準備をしていってほしい。岐阜高校の後輩たちも、自分なりにベストなパフォーマンスができるよう、「百折不撓・自彊不息」ではないですが、艱難辛苦を乗り越えて結果を出していってほしい。
東明有 自分ができないという自己嫌悪と、でも自分はできるという気持ちのせめぎ合いのバランスをいかにとっていけるかが大切です。自分はできるという気持ちが少しでも勝っている人がパフォーマンスを残していける。今、コロナの時代で悲観的なニュースだったり、将来に不安を感じることもあると思いますが、自分だったらできるという気持ちが勝れば、岐高生たちはポテンシャルが高いと思うので、そこで伸びていける。今、岐阜高校にいる皆さんは、世の中を変えていける力があると応援しています。
略歴
東明 有美(とうめい・ゆみ)
一九七二年、岐阜市生まれ。元サッカー日本女子代表。岐阜高校在籍時の一九八八年にプリマハムFCくノ一(現・伊賀FC)に加入。ディフェンスの要として日本女子サッカーリーグで活躍。日本代表として九五年、九九年のワールドカップ、九六年のアトランタ五輪出場。引退後も女子サッカーの発展に尽力。二〇〇七年に日本サッカー協会のJFAアンバサダーに女性で初選出。関東学園大学経済学部経営学科准教授、ビジネスコーチ。
近藤 幸夫(こんどう・ゆきお)
一九五九年。岐阜市生まれ。信州大学農学部卒。八六年、朝日新聞入社。初任地の富山支局で、北アルプスを中心に山岳取材をスタート。八八年から運動部(現スポーツ部)に配属され、南極や北極、ヒマラヤで海外取材を多数経験。二〇一二年から日本登山医学会の認定山岳医講習会の講師。現長野総局員兼山岳専門記者。
山賀 篤(やまが・あつし)
一九八〇年、名古屋市生まれ。二〇〇四年、岐阜大学医学部医学科卒。名古屋掖済会病院、朝日大学歯学部付属村上記念病院(現朝日大学病院)整形外科助教、奈良県総合医療センター整形外科(足の外科研修)など経て、一六年から、やまが整形外科副院長。日本整形外科学会認定医、日本スポーツ協会公認スポーツドクター。
東明 裕(とうめい・ゆたか)
一九六九年生まれ。一九九四年法政大学大学院卒。二〇〇〇年Purdue大学経営大学院卒。日本山岳会 岐阜支部 事務局長。岐阜県山岳連盟常任理事。
※ 座談会は四月一〇日に、昭和五三年卒業生で、令和三年度同窓会総会副運営委員長、広告会報担当を務める、現代画家中風明世さんが主宰する岐阜市の中風美術研究所にて行いました。
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