岐阜高校
岐阜高校同窓会

2022.06.07
恩師からの便り

若き日のわれらが、授業、ホームルーム、進路指導など困らせたり、怒らせたり…
懐かしいあの頃の日々、心の拠りどころとした先生方から温かい便りが届きました。

奇術の楽しみ

昭和54年卒担当 社会科
柴田 文彦

岐高の文化祭で、教室を舞台に、知的好奇心に訴えた「飛行するカード」の奇術を演じたことが思い出される。それは一〇枚のカードの中の覚えた三枚のカードが相手の封筒に飛行する奇術。

奇術のタネを増やし、演じ方を工夫するのが楽しみの一つ。私は大学の奇術研究会に入会した。合宿では、手技の四つ玉の習得で、一つの玉を指の間に挟み、指の間を転がす練習を朝から晩まで行った。「ターベルコース」という外国の本を部員らと翻訳をした。テレビでの奇術の番組はビデオに録画した。大須演芸場に通い、奇術以外は寝て、何度も同じ演技を見た。名古屋の「UGM」の講習にも通った。マリックの通信講座も受けた。タネは同じでも演じ方で効果は変わる。

覚えた奇術を人前で演じるのが楽しみの一つ。「親子で手品を楽しむ会」・「地区センター祭」・農業祭・子ども会・老人会等で公演した。特に、老人会では花、子ども会ではドラえもんの縫いぐるみの出現などが好評だった。観客の拍手が、楽しんでもらえたと感じる目安。

テレビでドリフターズがタネ明かしをしていた。私が演じていると、「そのタネ知っている。テレビで見た。」と言われ、困惑と憤りを覚えた。子ども会で、白紙がお札に変わる奇術を演じた後、少女が真面目な顔で「おじさん、この紙をお札に変えられる?」と言われた時は困った。

奇術で校長訓話をした。鏡を大封筒に入れ、尖った棒を差し込む。「鏡は困難で棒は強い意志」と言う。鏡を取り出しても傷は無い。「強い意志があれば困難を乗り越えられる」と話した。

奇術を講習するのが楽しみの一つ。大垣アマチュアマジシャズクラブや成人学級、OB会で長年講師もした。道具は自作。奇術店で購入できるが、それでは長く続かない。材料を百均や大塚屋などで探し回った。美術教師に頼み、大型カードにアンパンマンなどを描いてもらった。

岐高で担任した生徒が、同じ大学の奇術研究会に入部したと聞いたときは、びっくりしたと同時に本当に嬉しかった。

奇術は「騙す」ものではなく、錯覚や思い込みを利用して、不思議さを生み出す芸術。演者と観客が楽しむ時間を共有することが最も大切だと思い、演じてきた。

柴田 文彦 先生

「フルートの経験年数」だけは半世紀を超え一流(笛吹老人)

昭和54年卒担当 数学科
服部 岩夫

岐阜高校には昭和五一年(二七歳)から昭和六一年(三七歳)までの一〇年間勤務し、いろいろ貴重で楽しい経験をした。

その一つとして、勤務して三年目(昭和五四年)を迎える春、選抜野球に出場が決まり臨時応援吹奏楽団を二月に結成し二回戦終了後四月には解散(偽装?)した。準備期間が短時間にも拘わらず立派に甲子園で応戦することが出来た。団員は一般公募であるが器楽クラブ選択者を中心に何故か天文部員が多かった。

一回戦相手の吉備高校も吹奏学部が無く、近隣の中学校と高校の合同吹奏学団であった。NHKのニュースで「もう一つの甲子園」として応援合戦を取り上げてくれたが、当時は録画機械も無く記録が残っていないのが残念である。
解散後も「文化祭」、「体育祭」では有志が集まり演奏活動を続け、その活動が認められ昭和六〇年には「吹奏楽同好会」翌年には「吹奏楽部」と認められた。当時のメンバーは本当に音楽が好きで、今もオーケストラ等いろいろな形で音楽を楽しんでおられる。

生徒の皆さんは学業は言うまでもなく、それと平行して自分の興味のある事にどんどん挑戦し極め、学業のみならず趣味の世界も大切に同じ志をもつ仲間同士、お互いに切磋琢磨するなど有意義な高校生活を送っていたことも思い出の一つである。

私は平成二一年三月に退職、その五月に半世紀近く所属している(公社)岐阜県交響楽団の創立五五周年記念公演がウィーンの「ムジークフェライン(ウイーン楽友協会)」で行われ、フルート及びピッコロ奏者として参加した。ウイーンフィルが活動の拠点とする世界的に有名な黄金ホールで自分達が演奏したのである。これは私にとって定年退職のご褒美、また還暦のお祝いとなった。その後創立六五周年記念公演が愛知県芸術劇場「コンサートホール」で実施され、さらに創立七〇周年記念公演として令和五年五月四日にニューヨーク「カーネギーホール」での演奏会が予定されていた。その時私は七五歳、「オケ老人」、しかし残念ながら新型コロナのため中止となった。

一八歳の春、フルートを手にしてすでに五五年を数えるが、歳と共に音色は「妙なる調べ」から「耐えならん調べ」へ、「指は回らず目が回り」、「楽譜は拡大しても見辛く」、練習しても五分後には元に戻っている、暗記も出来ない。いよいよ潮時か。

母の介護とコロナのため交響楽団を休団しているため、介護の合間にマイナスワン(カラオケCD)を伴奏に演奏(?)を楽しんでいる。

今はクラシックをジャズ風にアレンジした曲を相手にしているが「リズム(特にシンコペーション)」や「音の配列」「正確なテンポ」などが手ごわく苦労している。

服部 岩夫 先生

大学入試の変遷

平成元年卒担当 英語科
奥谷 文隆

教員人生も終わりが近づいてきて、その日々を振り返ると、そのほとんどを母校、岐阜高校を始め、いわゆる進学校で送ることができたことを幸せに感じています。かれこれ四〇年以上進学指導に関わってきて、他に取り柄もないので、大学入試・教育制度について、(紙面の都合上、国立大学中心に)その変遷や最近気になっていることを書きたいと思います。読者の皆さんは、どの時期に受験でしたか。

まず、私が高校生だった時の大学入試は、一期校・二期校の時代でした。旧帝大を中心とした一期校と地方国立が中心の二期校に分かれており、東大と横国というような受験パターンが定着していました。これが、大学の序列化を産んでいるというような理由で、一九七九年度から大学共通一次学力試験が始まりました。共通一次と言っても大きくは五教科七科目一〇〇〇点満点の時代と五教科五科目八〇〇点満点の時代に分かれますが、細かく見るとほとんど毎年のように変更が行われました。五教科七科目の時代は、国公立を一校しか受験できませんでした。そのためか、大学の序列化は、拡大してしまいました。

五教科五科目になると、受験機会を複数化するため、A・B・(C)のグループ分けがされ、初年度は東大と京大のダブル合格者が多数出て、翌年から辞退者対策のために京大がグループを変える事態になりました。それ以外にも、名大医学部志望者が、東大理一・理二を滑り止めにしたことなどを覚えています。

最後の三年間の混乱の後、一九九〇年度から大学入学者選抜大学入試センター試験に変わり、私大参加や国公立大学では受験科目の指定が始まり、大学入試が多様化(複雑化)しました。二〇〇六年からは、英語でリスニングが導入されました。私大入試は、この頃からカオスとなり一大学一学部を何度も受験できる制度が広がりました。同じ大学を三つ以上出願すると割引とか、一度の受験でその大学のすべての学部の合否を判定する試験などが見られるようになっています。

二〇二一年度、大学入学共通テストが、始まりました。このテストへの変更は、記述式の出題や英語の外部試験導入など、不可能なことが盛り込まれていて、迷走を続けました。結局、共に見送られたが、今年度の試験では、数学・理科の問題に関して議論となっています。数学の問題を見れば驚かれると思います。さらに、入試制度ではないですが、新指導要領では、「現代の国語」から文学作品がなくなるなど、文部科学省の暴走・迷走が続いています。

奥谷 文隆 先生

守破離

平成元年卒担当 英語科
望月 俊実

「黙想。礼。」 凛とした張り詰めた雰囲気。キャプテンの声が寒の突き刺さるような空気の中、体育館に響く。

一月第三週の午前七時から八時までの日程で、寒稽古が始まった。切り返しを行い、相互の稽古に入る。我々三人の指導者に、生徒が全力で向かってくる。こちらも、生徒の「熱」を押し返す「気」で迎え打つ。生徒の長所を伸ばす打ちを受けつつ、指導者の打ちも出す。隣では、岩田孝志先生が巧みな竹刀さばきで、生徒に対峙している。上下を柔軟に攻める「勝負師」。思えば、岐高へ赴任する前々日、事務室で初めて話した先生が岩田先生だった。剣道部でも、同じ学年の担任としてもずっと一緒だった。定年退職後、私学でも一緒になり、何か不思議な縁を感じる。稽古を終え、我々も生徒も授業に急ぐ。

英語教育にも、微力ながら精一杯取り組んだ。読み、書き、暗記を徹底する「岐高英語」。空き時間には、小テストの採点、プリント作りなどを行い、休む時間はほとんどなかった。放課後は、会議以外は道場にいた。英語教育と剣道指導に必死だった。忙しかったが、充実した日々であった。

放課後の稽古は、四時から五時半まで。基本稽古のあと生徒との稽古。生徒の攻防に対応し、生徒の得意技で勝負するように心掛けた。朝稽古をやっているため、張りのある稽古になった。生徒の稽古を受けてから、村瀬隆平先生に向かった。村瀬先生の稽古はきつかった。小手が目にも止まらぬ速さで、色々な方向から来た。苦しまぎれに面を打つと、待ってましたとばかりに、胴を返されてしまう。小生が攻めあぐねているあたりで、「三本いこか。」と言われる。一本目は、先生の完璧な小手。二本目、小生の不十分な面に「参った。」と言われる温情。「勝負。」と先生。ここからが長かった。小生の息が上がり、物足りない打ちばかり。限界を読まれ「引き分け。」。やっと終わった。村瀬先生には、岐高在職中一〇年間鍛えていただいた。

部活が終わると、長良高校へ向かった。県下の教員チームの稽古会だ。手ごわい相手ばかり。自らの技術向上に結びついた。

午後七時、大急ぎで次に関ケ原へ行った。不破郡の稽古会である。岐高で二人の強豪に、稽古をしていただいたお陰で、ゆったりした気持ちでできた。九時に終了。

こうして、四回目の稽古を終え、行き着いた先が『離楽』であった。まさに、リラックスと、捉われることから離れることを楽しむ。つまり、自然体で臨むことが、『守破離』の『離』であると考えるようになった。今思い返すと感慨深い。

そして今も、英語と剣道を学べる最高のぜいたくを味わっている。

望月 俊実 先生

往事渺茫平成

11年卒担当 学年主任・国語科
小池 秀男

ある日、突然の電話。同窓会総会会報誌の原稿依頼だった。「…いや、その頃僕はもう担任を持っていなかったんじゃない?」「…ええ、でも学年主任でした。」…そうか、あの学年だったのか。

一、二年と持ち上がって、来年は当然三年生、と思っていた三月、新二年生の学年主任を要請された。

担任を持たない学年主任は寂しい。学校にホームルームがない。毎朝教室で迎えてくれる生徒がいない。ただ、人生の得失は表裏一体。それからの二年間、僕は別の楽しみを知ることになる。

二年が過ぎて、君らの卒業の年、僕は転勤希望を出した。一緒に卒業して、八年間の岐高勤務にピリオドを打とうと思ったのだ。

自由登校になったある日、学年の先生たちと反省会をもった。延々三時間、議論を尽くし、次年度に向けていくつかの提言がまとまった。…この先生たちともう一度同じ学年を持ちたいと思った。

その足で校長室に駆け込み、できればもう三年、せめてもう一年、ここにおいて欲しいと頼んだ。

望みの一つは叶い、一つは叶わなかった。岐阜高校には残ったが、学年を離れ進路指導を担当することになった。

結果として、さらに六年岐阜高校に残った。気がついたら一番の古株になっていた。

君らに出会ったのは、僕の教員生活二四年目の春。そこを折り返し点としてさらに二四年、今年僕は二度目の定年を迎えた。

教員になると言った僕に、学生時代の友人は言った。「(お前の性格では)三年もたないだろう。」 教員になった時、定年まで三八年と聞いて、頭がクラクラした。自分でもとてももたないと思った。

最初の定年を迎える一年前、一区切りつけるつもりで大学に籍を移した。東日本大震災の年だった。

ここでの仕事は、国語の先生を目指す学生に、授業作りのワークショップを行うこと。そんなこんなでここでも一一年が過ぎた。気がつくと七〇歳になっていた。

振り返って思うことは、人生、詮ずるところ出会いと別れ。

ある日僕らはどこからかここに来て、またどこかへと去って行く。その間の数十年間、繰り返すのは出会いと別れ。大事なのは、地位でも名誉でも、ましてお金でもなく、そこでの一つ一つの出会いと別れ。

教師となったことの冥利は、沢山の出会いと別れを繰り返し、沢山の苦も楽も味わえたこと。年月に晒されて、苦は昇華してあらかた消え、楽は結晶して今に残る。あの顔、この顔に出会えたこと、それが僕の財産の全て。

「往事渺茫都似夢」(白居易)

小池 秀男 先生

常識で考えるな・常識を考えよ

平成11年卒担当 理科
浦崎 太郎

初耳の人も多いだろうが、私は五年ほど前より、東京に所在する大学の教員として「高校教育改革の支援を通した地域創生」に挑んでいる。

今日、高校教育もまた「競争」から「共創」への転換が求められている。強みを活かしあい、弱みを補いあうことで、新たな価値や社会を創り出していく力を高める教育への転換だ。ここで、こうした教育を実現するには、地域との連携が欠かせない。それは、地域は学校よりも多様性や現場性が高いため、自走や夢中につながるスイッチが入る機会が多いほか、大人と共に実社会で価値を創造する経験を積む機会にも恵まれているからだ。
改革を進めるには常識の更新も求められる。すなわち、生徒を「既存の社会に適合させるべく、外発的に規格化すべき対象」とみる見方から「新たな社会の創り手として、個性が内発的に伸びていく可能性を秘めた主体」とみる見方への更新だ。

しかし、それは容易ではない。恥ずかしながら、私自身そう認識できたのは、つい最近のこと。「いったい何年の月日を浪費したのだろう」と思うと悲しくもなる。ただ、時間を要したとはいえ、ここに到達できたのは、皆さんと岐高で過ごした平成九~一〇年度頃の経験が土台になっているのは間違いない。

当時、宅習時間が前年比で一日六〇分も減るなど、かつて経験したことのない事態に見舞われていた。それに対して、学年会でも生徒を思い浮かべつつ活発に議論を行い、打てる手は打っていった。若手の同僚を中心に「自分達で打開していく」という気概に満ち、校長の後押しもある、いま思えば得難い環境だった。

同窓生の端くれとして「岐高が岐高でなくなる」ことは避けたいという想いも強かった。物理学を学び直したのもこの頃で、学問を楽しむために登校している生徒から「今日の授業は満足であった」という表情を引き出すことに喜びを感じていた。今日、教育施策の是非を物理学的な美的センスから見極められるのも、社会の仕組みと世界観との関連性を俯瞰できるのも、危機にあって物理学を学び直せたからこそであり、当時の岐高に在職していなければ獲得できなかったことは間違いない。

何より、あの頃に受けた衝撃の真因が、生徒だった皆さんではなく、時代が激変しているのに染みついた常識を自覚できなかった自分の愚かさにあったと気づけたことは‥。
今日的な閉塞感は「公式を覚えて代入」式の仕事、すなわち「常識で考える」ことしかできない大人の蔓延と決して無関係ではないと思う。「青は藍より出でて藍より青し」‥あの時代を岐高で生きた者にしか成しえないことがあると強調し、皆さんへのエールとしたい。

浦崎 太郎 先生

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