僕の百折不撓 還暦編
昭和53年卒
河嶋 廣
高校時代から僕は日本中をサイクリングで走りたい、という果たせぬ夢があった。
二〇一六年偶々北海道で仕事をしており、広大な北の大地でサイクリングしたい僕は自転車を購入し、まずはサロマ湖畔を走ったが本当に楽しく爽快だった。いよいよ岐阜に帰る時、長期休暇を取りサイクリングで帰ることを思い立った。不安もあったが絶対やると決心し、その気持ちが変わらぬように岐高の仲間に同窓会で発表した。もうこれで後には引けなくなった。二〇一七年の夏八月万感の思いで佐呂間町からスタート、旭川、富良野と走り苫小牧からフェリーに乗り八戸へ。ここからはほぼ東北線に沿って走り盛岡、仙台から南下、都内を避けて川越、八王子から厚木に抜け東海道を走り一六日かけて岐阜に着いた。達成感に満足した僕はその一年後二〇一八年夏今度は九州から岐阜へ走ろうとし、鹿児島県指宿市からスタートし、異様に熱いためか何度か足が攣ったがへこたれず広島市まで七日間で走った。その一年後の二〇一九年夏は広島市から岐阜にこれで完走するぞとの思いで僕はペダルを踏み走り始めたものの思いがけぬアクシデントに襲われた。夜八時あと少しで今夜の宿に着くはずだった岡山県から兵庫県の県境で僕の記憶が消えた。気がついた僕は赤穂市民病院救急室にいた。田舎の国道の真ん中で転倒し左側頭部を強打して伸びていたところを発見され救急車で搬送されたようだ。外傷性脳挫傷、翌日には左手が痺れていた。僕は入院嫌いで強引に退院し、自転車は預かってもらっていた赤穂警察署から家に送り返しJRで帰宅した。その後暫くは眩暈に苦しんだが後遺症もなく回復した。昨年二〇二〇年夏事故現場まで自転車をもう一度運び再スタート。日本の南北を結ぶ旅は今現在奈良市岐阜間を残すのみである。
Keep on smiling
昭和53年卒
佐久間直子
幼い頃から、皆と違う世界、違う視界に関心がいってしまう癖が治らぬまま、年を重ねた私には、漠然とした人生のテーマがありました。「人は、その人物の在るがままの自分で生きることこそ正しい。」 そんな信念のようなものが、物心ついた頃から確信としてあった私は、社会人になってからも、企業に馴染めず、二十代のほとんどをフウテンの寅さんよろしく、その日暮らしの気儘な東京生活を送っておりました。
人生とは、意図せずとも、それなりに必要な環境が向こうからやってくる!なんてことがあるようで、私は東京都の歴史ある専門業界紙の編集長になっていました。
政治と行政、関連企業のトップの取材、その為の、知識や情報の収集。取材先の選定から、スケジュールの指示、集めたネタを元に割り付け、記事を書き、印刷所に詰め、ゲラ刷りのチェックや校正、そしてお金になる企画を練り、専門だった広告制作に至る、新聞つくりの全てに携わりました。
正に、天職だと思っていましたが…そこで知ったことは、“人が在るがまま生きることができない理由”だったのです。
普通に生活していれば、知ることのない日本の深部を垣間見る仕事。誰にも頭を下げることのない仕事。そんな新聞社という金看板を背負わない、私自身が“在るがまま”を表現する新たなるステージを求め、五〇歳を前に、職を辞しました。
そして自営業の傍ら、憧れだったJRの売店でバイトを始めました。様々な国の外国人留学生、家庭を持つ主婦など、それまで関わることのなかった人々との出会い。これもまた、正に天職と思っています。
昼夜なく、人の心に無頓着に突っ走った新聞社時代。何気ない一日の一瞬の関わりに笑顔で心躍らせる今とのギャップに、「なかなか面白い人生だ!」とほくそ笑む私がいます。祖父は、恋愛に定年は無い!と申しましたが、私は人生に定年無し、一生涯もれなく楽しんで生きたい。
そして岐阜高校時代も、今も、今日に至るすべてに…ありがとうを伝えたい。
想い出多き海外転勤人生
昭和53年卒
渡邉 博
同窓会幹事の方からGIKO DAYSへの寄稿をしてみませんかと国際電話を頂いたときはちょっと驚いた。外務省に入って海外転勤族になったこともあり小学校、中学校、高校、大学とも同窓会にほとんど縁がない。日本に帰国したときには岐阜に帰って加納西小学校、加納中学校、岐高を歩いて回るのを密かな楽しみにしているが、みんなどうしてるんだろうとぼんやり思うのが精一杯。無精な性格だ。そんな私を見つけ出して、よく声をかけてくれたものだと感心した。
外務省に入ったのは大学を卒業した昭和五七年。専門語はイタリア語になったので、昭和五八年から二年間イタリアのフィレンツェで語学研修。私はいわゆるイタキチではなく好きでイタリア語を選んだわけではないが、イタリアの何が人を魅了させているかを探った。輝かしい歴史もあり実に奥深い。二年の語学研修に加えて、ローマ勤務二回、ミラノ勤務二回、日本と行ったり来たりしている間にイタリア勤務が合計一七年になっていた。同僚からは外務省で一番ラッキーだとからかわれるが、イタリア語が専門語だとこうなってしまう。
しかし、イタリアだけにいたわけではなく、ブラジルのサンパウロに二年九か月、マーシャル諸島共和国には四年二か月勤務し、今はフィリピンのセブにいる。セブは二年になり、この原稿を書きながら、次の勤務地のニュージーランドのオークランドへの引っ越しの準備をしている。
サンパウロもマーシャルもセブもそれぞれ実にいろいろな新しい経験をしてきた。忙しかったがそれぞれの国で多くの知己を得て良い仕事ができた。想い出多き人生となっている。
こんな私についてきてくれた妻と息子には深く感謝。環境が目まぐるしく変わる中で大変だったようだ。苦労を通じて家族は仲が良くなった。
百十一歳
昭和53年卒
野寺 夕子
林おかぎさんは、土岐市の、お人。
私の手元にあるのは九六歳のおかぎさんのポートレートだ。セピア色の写真。私が撮った。四六歳のときに。
このとき、おかぎさんは神戸の林さん…息子さんの家に滞在していて。「ドキュメント遺影」という新聞連載を始めていた私あてに手紙が届く。“撮ってもいいですよ”って。そう、新聞の紙上で呼びかけてたんだ、「あなたの遺影を撮らせてください」って。
新聞に、遺影が載るのは、著名な人か何か特別なことがなきゃならない…とか。高齢の女性の写真は敬意をもって撮影してたとしても“おばあさん”写真で、何だかなあ…とか。この文字数では動機はムニャムニャだが一年七ケ月毎週、写真+六百字の連載で七六人を訪ねることになる。
で、おかぎさん、だ。私が住む京都から、関西一円の相手の家まで出むいていたのであったから、土岐市のおかぎさんと出会えたのはたまたまだ。おかぎさんとは筆談した。生まれたのは土岐なんだけど、北海道にも住んでいたそうで、雄大な夕陽の話をたっぷりきかせてくださった。
セピア色の写真――白黒フィルムで撮ってセピアに焼いていった――は、その後、何人かの方の、ご本人の式で使われて、いく。
以来、「遺影を」と依頼をもらうこともあったが、一枚も撮らずにきた。「終活」という言葉も、まだ言われだす前に、一緒に冒険してくれた人たちと向き合うようにはできっこないし、丁度、手動でピントがあわせられない身体になってきていたしね。ああ、間に合ってよかったな、だな。
おかぎさんが九六で私が四六で。五〇歳も年上なんだな、とくらくらしてた。
私は、六一歳になった。そうして、あのとき出会った女の人が、今も私の五〇歳年上で、居てくださる――林おかぎさん。岐阜県の、最長寿。
経糸と緯糸、そして螺旋
昭和63年卒
髙橋美奈子
―遍歴・郷愁・帰郷という円周運動を繰返している旅人がある―
自然を愛し、旅を続け、美しい風景を描き残した日本画家、東山魁夷の言葉です。
高校の通学時、忠節橋の上から鮎が泳ぐのを眺めていた私は、地味で真面目、どちらかというと内向的な学生でした。一方で、異国に対する憧憬が強く、岐阜を離れて遠い国で暮らしたいと思っていました。生まれ育った故郷も、それまでの経験も私なりに大切にはしていたものの、それ以上に世界に飛び出し、未知の世界を見てみたいという好奇心が勝っていたのでしょう。
東京の大学に進学し、就職。二度の留学。アメリカで文化人類学と博物館学を学び、最初の職場では海外諸国との仕事、二度の転職―。常に美術業界に身をおきつつも、気づけば「遍歴」の日々でした。現在は、国立文化財機構という組織で日本の宝である文化財の魅力を伝え、活用し、次世代に継承していく活動に携わっています。
岐阜を離れて三十三年。様々な世界を見て遍歴を重ねた結果、岐阜に生まれ育ったことを心から誇りに思い、岐阜DNAを意識し、故郷をとても近くに感じている自分がいます。
そのきっかけの一つが、「万国博覧会の美術」という展覧会でした。それまで海外の文化を日本で紹介することに夢中だった私が、この展覧会に携わり、自分の生まれ育った日本の文化や芸術を世界に発信することの面白さ、中でも日本の郷土文化がもつ魅力を再認識したのです。
一九世紀末から二〇世紀の日本はまさに万博ブーム。世界と肩を並べるべく、国を挙げて、従来の工芸品・調度品をアートの域に高めて発信し、世界を驚かせました。パリ万博では大垣出身の大橋翠石が日本人で唯一金牌を受賞し、志野や織部に代表される美濃焼が高い評価を得ています。
業界内で岐阜出身だと明かすと、大抵の場合、「うらやましい」といわれます。岐阜は豊かな自然と歴史・文化に恵まれ、工芸、美術、建築、デザインなど様々な分野で岐阜を象徴する作品が残されているからでしょう。円空仏の微笑みや志野焼の釉薬、水うちわの手仕事に故郷の温もりを感じ、川合玉堂の描く山河には原風景が重なり「郷愁」の念がわいてきます。
岐阜と自分を近づけてくれたもう一つのきっかけは、十年前の同級生との再会でした。以前は故郷に戻るたびに居場所を模索してばかりでしたが、同級生との縁で「帰郷」の楽しみが増え、人生が豊かになりました。
螺旋状に円周運動を繰り返し、故郷のDNAを経糸に、世界の事象を緯糸に紡ぐ―。残りの人生もそんな旅を続けながら、岐阜、そして日本の魅力を伝えていこうと思っています。
北柳ケ瀬市街地再開発~その後
昭和63年卒
寺村建一郎
今回、会報誌への執筆は、一〇年前に続き、二回目ということになります。一〇年の期間を経て、当時の自分を取り巻く環境・当時の思いを振り返る機会をいただきました。
平成二四年三月末、父を理事長とする北柳ケ瀬市街地再開発事業によるオアシス柳ケ瀬ビルが完成。ビル建設自体に私は反対してきましたが、大きなビルが建ってしまうと一転、協力しなければという思いも強くしました。
平成二五年、ビルの一階に鑑定事務所を移転。士業を続けながらの飲食業運営は大変な決断でしたが、平成二七年八月、父がかつて同じ場所で経営していた和食料理屋「丸金」にちなみ、malkinという店をスタートさせました。
賃貸ビルの収支向上のための出店でしたが、売上のバラツキが大きく、なにしろ六〇坪の店舗を運営する人件費・食材費の負担は大きいものでした。
結果、平成二八年末には企画構想の段階からアドバイスをもらっていたツバメヤの経営者に店舗を譲渡し、同時に、不動産鑑定事務所も現在の市民病院付近に移転させて現在に至ります。
ただ、柳ケ瀬地区も悪い要素ばかりではありません。毎月第三日曜日開催のサンデービルジングマーケットは若いファミリー層に定着。近年はファッションビルの跡地等にマンション建設が進み、直近では本通りと神田町通りの角に八百屋さんができるなど衰退商店街は「村」として再興しようとしています。
今年、五月には岐阜市役所がメディアコスモスの南側に移転。現庁舎の跡地利用も気がかりですが、柳ケ瀬地区では、高島屋南再開発事業がいよいよ竣工し、令和五年二月竣工(予定)に向け、約三〇〇戸の分譲マンションを含む「柳ケ瀬グラッスル三五」の開発が進んでいます。コロナ禍がいち早く収束し、一〇年後、柳ケ瀬が居住型の商業地として再興することを願って、文末とさせていただきます。
昭和六三年卒の岐阜年末同窓会
昭和63年卒
長瀬 清
昭和六三年に岐阜高校を卒業し、岐阜大学医学部に進学後、そのまま岐阜大学医学部附属病院に奉職し二五年が経過しました。各務原市立稲羽中学の出身なので市外局番は〇五八三から〇五八二に変わりましたが、岐阜という井の中でずっと生活しています。
地元の縁にFacebookを活用し二〇一一年から毎年一二月三〇日に昭和六三年卒の年末同窓会を担当してきました。
何よりも料理が美味しい、長時間飲み放題で貸し切り、お酒の持ち込みも可という難題を満たす店を探しました。大海を知らなくても、岐阜の事情に詳しく小回りが効くのは強みです。約一五〇名が参加するFacebook昭和六三年卒岐阜高校同期グループを活用すれば、往復葉書も不要です。
ところで女性の参加なくしてこの同窓会は成立しません。私自身は三年時の理系選択で初めて男女クラスとなり、ここで人生の運を使い果たしたのではないかと錯覚しました。しかし高校生という多感な時期に男子クラスか男女クラスかという残酷な事実を受け入れてきた男性陣に、高校生活の暗い記憶は想い出してほしくありません。女性に集まってもらえるお店選びは、幹事としてのこだわりでした。
昨年の同窓会はコロナ禍のためリモート開催でしたが、一昨年まで九年開催し延べ三〇〇名以上の参加者に恵まれました。
幹事はずっと私です。理由は単純です。岐阜に住んでいること、飲み会が好きなこと、そして誰もドタキャンしないからです。年末の繁忙もインフルエンザも無関係です。千仞の嶽も百里の水も越えて必ず参加する同級生に毎回感謝です。こんなに律儀な同級生ばかりと書くと、同窓会参加へのハードルが上がりそうですが、会計はいつもピッタリです。さすがは岐阜高校卒業生。
昨年は新型コロナ感染症には翻弄されましたが、また皆で集いたいものです。
岐高六三卒競走部
昭和63年卒
鈴木 千秋
私達、昭和六三年卒業生の間には競走部があります。
主な活動の場はSNSグループへの投稿。自分が走った記録やランニング中の風景を投稿したり、故障の悩みを相談したり。都合が合うメンバーでリアルに一緒に走りましょう、ということもあります。
運動の苦手な私はランニングなんて自分とは無縁だと思っていましたが、ある時マラソン大会に出た同級生達からリアルで話を聞く機会が。あれ、SNSで見る以上に楽しそう。そして聞けば「高校の時は走るのは苦手だった。」「いかにして体育の授業を休むか考えてたほどの運動嫌いだった。」「でも今は走れるのよ‼」 早速同級生と一緒にランニングシューズを買いに行って皇居ランをする、という計画が立てられました。初めての皇居ラン。途中でエラクなって歩いたりもしたけど、一周五km走った後の気持ちのよいこと!体中ほかほかしていい気分。走って気持ちいいなんて初めての体験でした。
そこからは、自分で走ってはSNSに投稿、仲間にほめられ、励まされ、嬉しくなってまた走る。皇居ラン+飲み会の企画に参加したり、岐阜に帰省した際に金華山や長良川を一緒に走る約束をしたりして、同級生との繋がりも増えました。気付けば体力もついてハーフマラソンを走れるまでに。これも同級生と競走部のおかげです。
コロナ禍の現在はなかなかリアルで会うことは難しいのですが、早く気兼ねなく会って一緒に走れる世の中に戻れるよう、願ってやみません。
ちなみに。競走部のラン企画は飲み会からの参加もOK!ついでに、六三卒には、ラーメン部やカフェ部もあります♪やっぱり岐高同級生のつながりは素敵です。
あのころの景色
平成10年卒
金田 正敏
一九九五年夏の早朝、学年で二クラスずつが参加した林間学舎(現在は「友學館」という愛称があるそうです。)を出発し、最初の目的地である「お花畑」といわれる場所まで登山しました。その後、希望する生徒限定で、さらに上の「どっぴょう」と呼ばれた場所まで登ることになりました(いま調べると、西穂高独標のことだったのでしょうか)。登るにつれて植物がなくなり、人の頭大の大きさだった岩が、拳大に小さくなり、ごろごろして不安定な足元に、最後は両手も使って登った記憶があります。
独標に立った時、運よくその日は快晴で、周りは三六〇度を見渡せるまさに絶景でした。真っ青な空に周りの学生の青いジャージ、音もなく空気はさわやかで、登山に全く期待していなかった私には、強烈な感動として残ることになりました。思わず深呼吸した私は、こんなにも気持ちがいいのなら、いつかまた、すぐにでも来ようと思っていました。
現在、私は東京で弁護士として働いています。大学進学時に東京に出て、いつの間にか岐阜で生きた年月を超える期間、岐阜以外で住んでいることになりました。高校の頃漠然と希望していた、日韓の国際的な仕事もさせてもらっています。
あれからはや二六年、まだ独標には登っていないし、あの頃みていた未来の自分の景色に立っているのかは、わかりません。
現在の高校には、当時あった旧体育館もプールも音楽室前の桜の木もなくなってしまったようです。それでも、青春を賑やかで特別な場所にしてくれた岐阜高校は、思い出の中で、完全な姿で私を懐かしい気持ちにも、恥ずかしい気持ちにもさせてくれます。
あの頃みていた景色をもう一度思い出し、いまの立ち位置を確かめています。そしていつかまた独標まで登ってみたいと思います。
近況報告
平成10年卒
山賀 篤
岐阜市内のやまが整形外科にて開業医として、父山賀寛(昭和四七年卒)とともに整形外科診療を行っています。私は岐阜高校卒業後、岐阜大学医学部を卒業し、名古屋大学整形外科のグループに入局し、愛知、三重県内の総合病院にて勤務、約七年間岐阜県外で暮らした後に岐阜市内に戻ってきました。
整形外科の中でもスポーツ整形外科を得意にしており、クリニックが岐阜高校の近くにあるため、現在でも岐阜高校の学生さんと接する機会が多くあります。スポーツ傷害の学生にスポーツ選手として自分の症状を正確に自分の言葉で伝えること、自分の体の状態を把握しセルフケアを行うことを伝えるよう努力をしていますが、岐阜高校の学生さんはそのような能力が高い方が多く、先輩として頼もしく感じています。
また整形外科開業医としての活動以外にJリーグFC岐阜のチームドクターを務めています。自分がチームに関わり出してからJ2下位に甘んじ続け、先々シーズンにはJ3に降格、先シーズンもJ2再昇格を逃すなど成績面ではかなり苦しんでおります。大変なことも多いですが普通の開業医では経験できない体験、人とのつながりを持つことができ、感謝しながら活動を続けています。
大学卒業まで岐阜で過ごし、あまり自分の地元に魅力を感じていない所もあったのですが、愛知県や三重県でも暮らした後に岐阜に戻ってきたことで、岐阜の良さを再認識しています。現在地元の医療に貢献できることに誇りと感謝の気持ちをもって日々診療に当たっています。
学校現場に関わる弁護士として
平成10年卒
小森 正悟
岐高での思い出。旧体育館を黒マルチで遮光して演劇をした文化祭、真剣に勝利を追求した球技大会(ソフトボール)、原発の是非について討論したディベート大会への出場など…。私は、小中学校で集団生活における規律を(嫌というほど)学んだせいか、岐高では、先生方からいくらかのお目こぼしを頂戴したことも含め、とても自由を感じた。文武の能力だけではなく、自由な環境下における仲間との活動から得た経験が、今の自分の公私に繋がっている。
今私は弁護士として一八年目であるが、これまで学校法務に注力してきた。私が弁護士となったころは、学校運営に弁護士が関わることは一般的ではなかったが、私の恩師が県教委に入られたことが契機となり、学校現場から直接弁護士に相談する仕組みが構築された。学校法務とは、学校で生じる様々なトラブルに対して法的観点から助言しつつ、最も適切な教育機関としての対応を教職員と一緒に考えるという業務である。
私はまた、教育機関における法教育の普及をライフワークとしており、自ら学校で法教育授業をしたり、会所属の弁護士を学校に派遣している。法教育とは、正解が無い課題に対して法的なものの見方・考え方を用いてアプローチする能力を育むという教育であるが、将来を担う子どもたちにとって不可欠な資質であると確信している。
今後も、弁護士として有事・平時に学校現場に深く関わることで、学校という「学び・経験の場」を守っていきたいと考えている。そして、自身が経験したように、一人でも多くの児童生徒が、後から肯定的に振り返られる学校生活を過ごすことに繋がれば、望外の喜びである。
原点は変わらない新たな一歩
平成10年卒
森田 恵
同窓会会報誌への寄稿依頼があり、高校時代を振り返りました。高校時代はとにかく勉強に追われた記憶が大半ですが、楽しい記憶も残っています。高三の後藤道子先生が担任の時の文化祭。文化祭前に毎日遅くまで残ってクラス全員が一致団結で製作に取り組んだジャングルのアトラクション。ワニの口の中を通ったり、大きな石が転ってきたり、教室に池を作って水を貯めたり…当日は参加者全員が楽しんで帰ってくれたことがうれしかった。思うと、この頃から仲間と一緒に作って人を喜ばせることが好きだったのだと。
大学を卒業してから今年の二月まで一八年間、名古屋の菓子メーカー春日井製菓で商品開発の仕事をしてきました。五〇〜六〇品の新商品を世に送り出しました。商品開発もテーブルで作れても工場ラインでのスケールアップでは同じ様に作れません。工場の人達と一緒になって機械を改良して配合を改良して商品を作り上げてきました。つぶグミ担当時には母校につぶグミを送ろうキャンペーンで岐阜高校にもつぶグミを寄贈。お菓子を通じて世の中の人を幸せにしたい。そんな思いで開発をしてきました。
現在は三児の母。子育てをしながら毎日片道一時間以上の通勤をしつつ、時短勤務で子育ても家庭も仕事もそこそこというスタンスで。休日には子供たちと市民菜園を借りて野菜作りをしたり、釣りやスキーに出かけたり。
コロナ禍で自宅で過ごす時間が増え、自分の価値観を改めて見直し、長い人生の中、違う世界も見たい。と、思い切って転職を決意しました。名古屋の老舗マスクメーカー白鳩でマスクの企画開発をします。新たな一歩。楽しみつつクリエイティブに人が喜ぶモノ作りができたらいいな‼
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