古往今来

2025(令和7)年10月

 

 黒木博司(1921~1944)は岐阜県下呂市で生まれました。父の弥一は町に医院を開業していました。母のわきは、「百人の人に笑われても一人の正しい人に誉められるよう、百人の人に誉められても一人の正しい人に笑われないよう」にと教え育てたとされます。黒木は1934(昭和9)年に岐阜中学校に入学し、故地を離れて暮らし学びました。当時の黒木は、船の模型を作ることが好きで、船や魚雷の設計や製作をしました。そして岐中の先輩として広瀬を知りました。
 黒木は、1938(昭和13)年8月に海軍機関学校の試験を受け、11月に合格通知を受け取って、12月に海軍機関学校に入学しました。岐阜中学校は1939(昭和14)年の卒業となっています。1939年2月には岐阜県立中学校学則が改正されて「病気其ノ他已ムヲ得サル事由ニ由リ休学、転学又ハ退学セントスル者ハ事由ヲ詳記シ保護者ヨリ学校長ニ願出ヅヘシ(中略)前項休学ノ期間ハ兵役ニ服スル場合ノ外ハ一年以内トス」となり、休学は男子において兵役による場合のみ1年以内で認められるようになりました。
 国の内外共に時局の動きはめまぐるしく、教育は落ち着きを失っていました。第二次大戦終盤の1943(昭和18)年になると、兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳(1944年10月以降は19歳)以上の文科系(加えて一部の理系学部〉の学生を在学途中で徴兵し出征させる学徒出陣(学徒動員とも)が行われました。
 黒木が進んだ海軍機関学校は、海軍兵学校、海軍経理学校と共に「海軍三校」と呼ばれ、1881(明治14)年に設置されて1887(明治20)年に一旦閉校した後、1893(明治26)年に再び設置されて1945(昭和20)年の終戦まで存続しました。同校では、機関技術、整備技術を中心にした機械工学、科学技術(火薬・燃料に関する技術)、設計などに関する研究及び教育が行われました。
 黒木は、1942(昭和17)年6月、ミッドウェー諸島の攻略と米海軍機動部隊への反撃を目指した海戦で戦艦「山城」に乗務しました。しかし、同海戦では主力空母4隻を失い、「山城」は戦局に寄与することなく広島県の呉港に帰還しました。黒木は、海軍の伝統的方針であった大艦巨砲主義に見切りを付け、潜水艦勤務を希望しました。

 マリアナ諸島西方沖での海戦に敗退し、サイパン島陥落に甘んじた1944(昭和19)年夏以降、日本軍は同域内での制海権と制空権を失い、マリアナ諸島の島嶼の占領を米軍に許しました。潜水艦で構成される第六艦隊も苦悩し、海軍の危急存亡とされる中、黒木大尉は仁科関夫中尉と共に特攻兵器を創案して進言しました。
 鳥巣建之助著『人間魚雷 特攻兵器「回天」と若人たち』は、それまで「水中特攻兵器には反対してきたし、むしろ反感さえ持っていた」とする著者が「両若人の至純の熱情、容易ならざる決意、一身を捧げて祖国を守ろうとする真剣な顔」に真の武人を見た、と書き始めています。
 回天は九三式三型魚雷(酸素魚雷)を改造したものです。1944年7月に試作型2基が完成し、11月に初めて実戦に投入され、終戦までに420基が生産されました。「回天」という名称は、大森仙太郎少将(特攻部長)が幕末の軍艦「回天丸」から命名しましたが、開発に携わった黒木は「天を回らし戦局を逆転させる」という意味で使っていたとされます。

回天十型(試作型、全長9㍍・重量2.5㌧)
  (呉市海事歴史科学館・大和ミュージアム、令和元年12月・撮影)

 回天の操縦訓練にあたり、それまでに操縦した経験をもつ士官は黒木と仁科だけでした。同書の第四章「回天の誕生と神風の出現」の〈海底の悲歌〉には、訓練初日の9月6日、山口県の徳山湾での同乗訓練の状況が記されています。
 両人は、指導官の育成のために一人乗りの回天にそれぞれ同乗しました。同日の午後には風が吹き始め、海上には白波が立っていました。先に訓練を終えた仁科は黒木に訓練の中止を勧めましたが、訓練に向かう黒木は仁科に「敵は待ってはくれぬ」と言い、「これくらいの波で使えないようなら、実戦の役に立ちません」と指揮官を説得しました。
 黒木大尉が操縦した回天は荒波の中で海底に沈み、黒木と同乗の樋口 孝大尉の両人は艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書などを書き残しました。浮上予定時刻を過ぎて16時間、艇は静かになった朝の海で発見されました。回天を創始した黒木の死は「回天作戦の前途を暗黒の雲がとざしてしまったとさえ思われた」一方で、これを機に「黒木に続け」と搭乗員たちの士気はかえって高まったとされます。

参考文献
「岐高百年史」清 信重著(1973年)
「人間魚雷 特攻兵器「回天」と若人たち」鳥巣建之助著(新潮社、1983年)


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