古往今来

2025(令和7)年12月

 

 戦後の岐阜高校で部活動復活の烽火(のろし)となった野球部の活躍は、第31回全国高等学校野球選手権大会で打ち建てた準優勝の金字塔でした。
 この大会は、1949(昭和24)年8月13日から20日まで行われ、参加校は全国で1365校、出場校は23校でした。出場校の数は現在の概ね半分で、その地区割りは、都道府県単独とは限りませんでした。決勝に進んだ神奈川県立湘南高校は神奈川県代表で、東海地区からは、三岐代表(三重県と岐阜県)の岐阜高校のほかに、山静代表(山梨県と静岡県)の静岡城内高校(現・静岡県立静岡高校)、愛知県代表の瑞陵高校(現・愛知県立愛知商業高校)の3校でした。
 第31回大会では、開会式で入場行進する各代表校の先頭に西宮市立建石高校(現・西宮市立西宮高校)の女子生徒が校名のプラカードを掲げて行進し、これ以後恒例となりました。また、球場にラッキーゾーンが常設され、〝甲子園の土〟を持ち帰ることが定着し始めたのもこの頃でした。

 次の文は、茨城県水戸市の出身で、学生野球指導者、野球評論家になった飛田穂洲(とびた・すいしゅう、本名は飛田忠順(ただより)、1886~1965)による大会の総括です。飛田氏は、1872(明治5)年に移入された「ベースボール」を日本の武道に通じる「野球道」と捉え直し、野球に取り組む姿勢を「一球入魂」の言葉で表した人でもあります。

      …決   勝…
湘 南 000 102 020=5
岐 阜 021 000 000=3

       湘  南
 一 岡 本 210
 三 脇 村 402
 中 根 本 310
 投 田 中 400
 捕 平 井 411
 遊 宝 性 520
 左 佐々木 520
 右 原 田 400
 二 古 家 301
 
 振四犠盗打安失
 98123474
     岐  阜
 二 服 部 312
 捕 部 田 310
 投右花 井 410
 中  森  320
 左 河 合 410
 投 田 中 000
 三 福 永 412
 一 細 川 401
 遊 稲 木 401
 右左今 尾 310

  振四犠盗打安失
  32313286

                     
  二塁打 佐々木▽捕逸 部田2、平井
  ▽併殺 湘1、岐1▽残塁 湘11、岐6

 故障押した花井 湘南の逆襲許す
【評】 小倉もすでに大優勝旗を甲子園に残して去り、芦屋がまた雄図空しく陰をひそめ、高松、倉敷も幸運にもれて今はただ湘南、岐阜のいずれかが最後の日を飾ることとなった。
 両軍一長一短はあっても花井、田中相譲らぬ球力を持ち、攻守相キッコウして予断を許さなかった。両軍立上りにチャンスをつかんだが、やや拙攻のきらいあって得点なく、岐阜は2、3回、敵失と安打で3点を先取し、湘南の形勢ははなはだ非なるものがあった。花井は身体の故障をおしての出場であり、平素の速力を欠くもののごとく、コントロールもしばしば乱れんとしたが懸命の投球に湘南を抑え、4回1点を回復されながら3-1のまま前半を終った。
 湘南の田中は技巧的に岐阜の打者をしとめんとつとめたが、いささか球速にゆるみを生じ、岐阜に乗じられた気味であった。その多くは味方の凡失にわざわいされて不利に陥っていた。6回、湘南が2点を回復してから、いよいよ試合は優勝戦らしくなり、後半の一投一打に熱をあおりつつ、武運定めの一打が光るまで試合を同点のスコアにのせたまま、歩一歩に終りに近づきつつあった。かくて8回花井は宝性、佐々木に連安打されたものの原田、古家を打ちとり、危機ようやく去ると思われたが、岐阜はここで挟殺を誤り、捕逸に1点を献じ、さらに二塁の内野安打に2点を勝ち越された。これが岐阜の致命傷となり、無名の湘南は一躍して全日本の選手権を握るという空前の武勲を樹立した。
 それにしても岐阜が後半の逆襲によって勝利を失ったことはいかにも同情に堪えない。花井さえ健在であったらの憾みが深い。湘南には特に傑出したプレーヤーはないが、田中を中心とした人の和がチームを支配し、創立わずか4年というのにこの栄光に浴し、長い間優勝旗に見放されていた東日本に春をもたらしたのだった。 (飛田穂洲)

参考文献
「全国高等学校野球選手権大会70周年史」朝日新聞社編(朝日新聞社、1989年)


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