
2026(令和8)年9月
岐阜市北野町は、本願寺岐阜別院(西野町)の西に位置し、天神町通と忠節橋通の間にあります。同町にはかつて岐高女の北野町校舎があり、現在は岐阜県立岐阜盲学校があります。
岐阜県立岐阜高等女学校では、開校に先立って1902(明治35)年9月27日に県立化が認可され、北野町の敷地(約6600㎡)が市から県へ移管されました。この場所は天神神社の境内でした。
天神神社(忠節町、通称・忠節天神)は、承久年間に美濃国の目代(もくだい)になった斎藤親頼(帯刀左衛門)が加賀国から厚見郡今泉村に分祀したことに始まります❶。その後、斎藤氏によって本社や紅梅殿などが造営されましたが、1534(天文3)年9月の長良川の洪水❷で社頭は大破しました。以後、幾多の変遷を経て、明治期に忠節町の現在地(当時は稲束村字小屋前)に移されました。
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『藍水』には、忠節の天神神社に奉納された額の写真が掲載されています。同神社の本堂には、神鏡の前にその額が掲げられていますので、秋のある日に神社にうかがい、神主さんのご協力を得て、奉納額の写真を撮らせていただきました。

奉納額の裏面には次のように墨書されています❸。(ルビは「古往今来」に筆者によります)
--「抑(そも)この天神神社ハ わが母校に登(と)りてハゆかり无(も)深き御社にしあ連(れ)バ ことし母校創立第三十年なるに際し この御額を奉納して聊(いささ)か神㚑❹に對(こた)へま徒(つ)る
昭和七年九月二十七日 奉納 藍水同窻會
京都寺町三條上ル宮﨑製」
この文から、岐高女の創立30年を記念して1932(昭和7)年、創立記念日である9月27日に奉納されたことが分かります。神主さんによれば、現在天神神社がある所も1945(昭和20)年の岐阜空襲で焼けており、この奉納額は戦火を避けて一時的に移されていたと考えられる、とのことでした。
「古往今来」の筆者による註記
❶平安時代中期の貴族、斎藤叙用(のぶもち)は、10世紀中頃に斎宮頭(さいぐうのかみ)に任ぜられ、官職名から「斎藤」を名乗りました。叙用は、菅原道真を氏神として加賀国江沼郡敷地村に勧請し、現在の菅生石部(すごういそべ)神社(石川県加賀市大聖寺敷地)ができました。中世には、付近一帯は北野天満宮の社領であり、「敷地天神」や「菅生天神」という通称でも呼ばれました。
❷長良川の流れは、昭和の初めまで長良橋の下流で井川(現在の長良川)と古川、古古川の三つに分かれ、古川と古古川はそれぞれ伊自良川に注いでいました。1534年の洪水では、井川の水口付近で破堤し、井川の河道は江口で古川と合流するように変わって現在の長良川の川筋が形成されました。古川と古古川は1939(昭和14)年に締め切られました。
❸『藍水』には奉納額は「杉原教諭謹書」とあります。『岐高百年史』の〈昭和期(二三年まで)教師列伝〉の〈女学校の部〉に「杉原亮治」、「国語、習字」(497㌻)の記述が見られ、1973(昭和48)年度版同窓会会員名簿から、杉原亮治教諭(1924(大正13)年~1944(昭和19)年に勤務)であることが分かります。なお、額の裏面に書かれた「昭和七年九月二十七日 奉納 藍水同窻會」の部分は板に彫られ、それに続く「京都寺町三條上ル宮﨑製」の文字も同様に彫られています。
❹「㚑」(あるいは「灵」とも)は「霊」の俗字。
参考文献
「天神々社誌」鹽谷幸滿編(村社天神々社々務所、1922年)
「會誌 記念號」藍水同窓會編(1932年)
「藍水」藍水同窓会編(1969年)
「岐高百年史」清 信重著(1973年)
岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内
