古往今来

2024(令和6)年7月

第22話 ■岐阜中学校の図画教員、平瀬作五郎《明治の群像・2》

 

 平瀬作五郎(1856~1925)は在野の植物学者で、イチョウ(公孫樹)の研究により帝国学士院恩賜賞を受けた人です。
 平瀬は、福井藩中学校(現・福井県立藤島高校)に入学し、在学中に加賀野井成是に油絵を学び、更に1873(明治6)年には上京して山田成章のもとで写実派油絵を学びました。
 岐阜県中学校の図画教授方になったのは1875(明治8)年のことです。彼が岐阜に赴任した理由は、当時の岐阜県令(知事)長谷部恕建(よりつち)が福井藩士で、その推薦を受けたからのようです。また、加賀野井が岐阜県師範学校に図画教員として赴任していたことも影響したと思われます。平瀬が岐中に赴任して1年余りで加賀野井が退職すると、平瀬は師範学校にも勤務するようになりました。
 次の絵は岐阜日日新聞に連載された『岐高百年史』の第28回(1972(昭和47)年9月29日)の挿絵です。第28回には、明治12年のできごとと教師としての平瀬が描かれています。この年にはまた、平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)が岐中に入学しました。平生は大半の科目で成績優秀でしたが、習字と図画が苦手だったようです。

 この挿絵では平瀬の図画の授業での平生釟三郎の逸話が表現されています。中央のカキツバタ(杜若)をはさんで、右は平瀬作五郎、左は平生釟三郎です。
 ある日の授業で、平瀬(右)はカキツバタを持ってきて写生させました。平瀬は平生(左)の絵を見て「お前には、あのカキツバタがそんな風に見えるか」と言ったところ、平生は「見えるとおりに書けるくらいなら、授業の必要はない」と反論しました。
 平瀬は、1888(明治21)年に帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室に画工として勤務しました。帝大への就職については、当時の文部大臣森 有礼が学業訪問で岐中を訪れ、平瀬の力量と指導力を見出したことなどが推測されます。
 植物学者牧野富太郎を描いたNHKTV・朝の連続ドラマ『らんまん』(令和5年度前期放送)では、平瀬は東京帝大理学部植物学教室の画工、野宮朔太郎(亀田佳明が演じました)として登場しました。野宮が「生徒に人の絵を笑うなとあれだけ言ったのに…」と、人の絵を見て笑った自分を責めるシーンがあります。その言葉は、岐中での平生とのできごとを受けて、平瀬が信条としたことに基づくものであろうと思われます。
 東京で平瀬は植物学に興味をもつようになり、1893(明治26)年からイチョウの研究を始め、1894(明治27)年に最初の論文『ぎんなんノ受胎期ニ就テ』を発表しました。1896(明治29)年9月、平瀬は生きている精虫を顕微鏡下に観察し、同年10月の『植物学雑誌』(第116号「いてふノ精虫に就テ」に次のように記しました。——「去ル九月九日其生物ヲ実験セル際精虫ガ花粉管ノ一端ヨリ飛出シテ胚珠心ノ内面ニ溜レル液汁(多分蔵卵器ヨリ分泌セルモノナラン)内ヲ自転シナガラ頗ル迅速ニ游進セル状(さま)ヲ目撃スルコトヲ得タリ
 ソテツ(蘇鉄)の精子を発見した帝国大学農科大学の池野成一郎(1866~1943)は平瀬と同時期の植物学者でした。このとき平瀬は、寄生虫かと思って池野に見せましたが、池野は一目で精子だと直感しました。これが世界で初めての裸子植物における精子の発見となり、池野の成果と合わせて、日本人による植物学への貢献となりました。
 1912(大正元)年、平瀬は池野と共に帝国学士院恩賜賞を授与されました。学歴が重んじられた時代に平瀬が恩賜賞を与えられたことは異例のことでした。
 文部省係官の授与伝達を受けた際、平瀬が授与しないことを知った池野は「平瀬君がもらわないのなら、私も断わるよ」と言い、二人の同時受賞になったとされます。

参考文献
「「イチョウ精子発見」の検証 平瀬作五郎の生涯」本間健彦著(新泉社、2004年)


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