古往今来

2023(令和5)年12月

第15話 ■150年前のできごと―日本と世界

 

 岐阜町小学義校及び付設中学校が金華山の西麓、尾張藩岐阜町奉行所(現・岐阜市米屋町)に設立されたのは1873(明治6)年のことでした。今から150年前に国内と世界ではどのようなできごとがあったでしょうか。

岐中の校章入りバックル (岐阜高校・校史資料室所蔵)
岐高女の校章バッジ (岐阜高校・校史資料室所蔵)

 幕末から維新にかけて国内は激変しましたが、明治維新は一挙に進んだわけではなく、様々な改革が順次実施されながら近代国家としての体制づくりが進められました。
 1872(明治5)年11月9日、政府はそれまでの暦を廃して太陽暦を採用し、12月3日を翌年の元日(明治6年1月1日)とする太政宮布告・第三百三十七號「改暦ノ詔書」を出しました。
 それまで使われていた暦は1844(弘化元)年に施行された太陰太陽暦(天保暦)で、月の満ち欠けを基準に1年を354日とする太陰暦に太陽暦の要素を加味し、約3年に一度の閏月を設けて季節のずれを補正するものでした。太陰太陽暦は、季節変化に合致しており、農耕を主体とする日本人の生活習慣を考えると合理的でしたが、太陽暦を標準とする諸外国との折衝を行う際には支障となりました。そこで、欧米の列強国に足並みを揃えて外交上の不便を解消し、開化政策を推進するために改暦が必要とされたのです。
 逼迫した財政事情も改暦の一因であったとする説があります。明治6年は太陰太陽暦で閏年にあたり、13箇月ありました。公務員の給与を幕政時代の年俸制から月給制に変更した政府にとって、改暦を行えば年末の12月と翌年の閏月の2箇月分の給与歳出を削減することができたのです。しかし、準備期間がわずか1箇月での改暦は、多くの国民にとって寝耳に水の如きできごとで、便乗して年末の借金を踏み倒す者が現れたり、既に刷り上がっていた翌年用の暦や関連商品が使えなくなったりして、混乱が生じました。
 1月15日には、1872年の学制発布を受けて、東京師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)が昌平坂学問所跡(東京都文京区大塚)に設立されました。これは学制に基づく日本初の小学校です。4月1日には郵便料金が全国的に統一され(書状は市内一銭、市外二銭)、12月1日には郵便葉書(市内五厘、全国一銭)が発売されました。
 7月20日には第一国立銀行(旧・第一勧業銀行を経て現・みずほ銀行)が設立されました。これは国立銀行条例による民間経営の国立銀行で、8月1日に営業を開始しました。渋沢栄一が初代頭取に就任し、日本銀行が創設されるまでは銀行券(紙幣)の発行が認められ、発行する銀行券は金貨との交換が義務付けられていました。

2月・復讐の禁止
江戸時代には、武士には仇討ち(敵討ち)が慣習として認められていました。これは、主君や親兄弟などを殺した者に復讐して恨みを晴らすことで、人を殺しても、番所に届けて仇討ちと認められれば罪に問われず、そればかりか美化されました。その典型が忠臣蔵でおなじみの、1703(元禄15)年に行われた赤穂浪士の討ち入りです。
 しかし、武士の時代が終わって近代国家となろうとするとき、こうした旧習は時代の遺物となりました。2月7日に出された太政官布告・第三十七號「復讐ヲ嚴禁ス」の冒頭には次のようにあります。(句読点を加え、ルビを付与しました)

――人ヲ殺スハ國家ノ大禁ニシテ、人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公權ニ候處(ところ)、古來ヨリ父兄ノ爲ニ讐(あだ)ヲ復スルヲ以テ、子弟ノ義務トナスノ風習アリ。右ハ至情不得止ニ出ルト雖トモ、畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ、私義ヲ以テ公權ヲ犯ス者ニシテ、固(もとより)擅殺(せんさつ)ノ罪ヲ免レス。

5月・ウィーン万国博覧会、ジーンズ
 5月1日から10月31日まで、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンの市街地中心部にあるプラーター公園で万国博覧会が開催されました
 博覧会のテーマは「文化と教育」で35か国が参加し726万人が訪れました。会場には高さ84㍍、直径108㍍のドームを設けた面積16㌶の鉄骨製パビリオンが建設され、国や企業の展示が収容されました。岩倉具視が率いる遣欧使節団も6月に見学しました。
 この博覧会には日本政府が初めて公式参加しました。参加の目的は、日本の物産の輸出促進、海外の最先端技術の把握と国内技術の向上などで、神社と日本庭園を造って鳥居や反り橋などが配置され、産業館には浮世絵や工芸品が展示されました。東洋の神秘を前面に出すべく、名古屋城の金鯱、鎌倉大仏の模型、大太鼓、提灯などが陳列されました。精巧な美術工芸品を中心に評判を呼び、ウィーンでもジャポニスムが注目されました。
 アメリカでは、5月20日に既製服メーカーのリーバイ・ストラウス社 (Levi Strauss & Co.)が鋲(リベット)でポケットを補強したズボンの特許を取得しました。
 1848年に始まった西海岸のゴールド・ラッシュは空前の繁栄をもたらし、1850年にはカリフォルニアが合衆国で31番目の州になりました。1853年、ユダヤ系ドイツ人移民のL.ストラウスは、サンフランシスコのベイエリアに雑貨店・生地商の会社を設立し、それまで幌や帆の材料として用いられていたキャンバス地を使って港湾労働者向けに作業用パンツを製造し、販売を始めました。次いで1870年、リガ(ロシア)からの移民で仕立屋のJ.デイヴィスは、ストラウスの会社から仕入れたパンツを鋲で補強しました。こうしてジーンズ「リーバイス」の原型が完成したのです。ストラウスとデイヴィスは、金属鋲で補強し、バックポケットの裏側に補強布を縫い付けるためにステッチを施しました。1880年代には素材がキャンバス地からデニムに変更され、量産が始まりました。


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