古往今来

2024(令和6)年9月

第24話 ■校旗考


 今年4月に校旗が同窓会によって新調され、一代前の校旗は額装されて保存されます。
  『校旗の誕生』には、「校旗」は学校唯一の存在である正式の旗であり、これに対して校旗の代用となる旗が「標旗」である、とあります。校旗は、旗台に安置されるもので、掲揚されたり打ち振られたりすることはないのに対して、標旗は校旗を模した仮校旗もしくは略式の旗です。こうした校旗と標旗の在り方は昭和期になって定着したとされます。とはいえ、例えば甲子園球場で、勝利チームの「栄誉を讃えて仮校旗を掲げます」というアナウンスでは様になりませんし、逆に、仮校旗とはどういう旗のことだ? という疑問が生じそうです。やはり「栄誉を讃えて校旗を掲げます」がふさわしいでしょう。
 同書には、学校の旗の嚆矢は1873(明治6)年に開校した開成学校(旧幕時代の開成所、東京大学法・理・文学部の源流)の標旗であること、最初の校旗としては1887(明治20)年に制定された高知尋常中学校(現・高知県立高知追手前高校)の旗(白羽二重地に校章を金糸で刺繍され、周囲が金モールで飾られている)が確認されていること、も記されています。

新調された校旗(校長室にて)

 現在では校旗は学校に不可欠の存在ですが、旧制の中学校、高等学校の創立時には多くの学校に学校の旗がありませんでした。
 本校の校旗の製作について、資料を探すと、創立80周年の記念誌『岐高八十年』の「八十周年記念祝典にあたり一言」に、岐阜県副出納長(当時)の伊藤 稔(明治45年卒)による「校旗の思出」の文があり、その経緯が分かります。同文からは当時の校舎(現・岐阜市立岐阜中央中学校の場所)や学校生活の様子も分かります。

――若き日の思出として忘れられないのは、あの真紅の校旗です。
 新調されたのは明治四十二年と思います。校旗は真紅の二重塩瀬❶の生地、中央に大きく桜の校章を表し、紫色の縁総がつき、竿は黒色千段巻❷、頭は銀色の鎗で、京都高島屋製でした。私は剣道部員であったせいか、校旗手を命ぜられて、林校長先生❸から新調の美しい校旗を授けられた時はほんとうに感激致しました。
 公式行進などには六百の全校生徒の先頭に此美しい校旗を高く風になびかせましたが、当時県内の中等学校の校旗としては一番立派だったと思います。あのなつかしい校旗も、戦災で焼失して今は只記憶の中に生きるだけです。現在の校旗は二代目とのことです。
 其頃の母校は今の京町小学校用地にあって表にはいかめしい赤煉瓦の門柱、透し鋳物の大扉があり、入ると右側に古風な屋根の尖つた白ペンキ塗りの門衞所があつて白髭古武士風の剣道の師範前島先生❹が住んでおられました。
 中央庭の円い小山の松の植込みの向うに一段と高く建てられた大講堂があり、内部正面は大きな御影奉安所❺右側の白壁には矢野先生力作の油絵の冨士山の大額が掲げられていました。三年生迄は正課に音楽があり、そこで大きなオルガンで「箱根山」❻などの唱歌を教わりました。私は校内の寄宿舎❼にいましたが舎生は八十名位で、此共同生活は実に愉快で土曜日の夜の茶話会の余興、舎生一同で観る活動写真(多くは洋画)夏の鵜飼見物、螢狩りなど楽しいものでした。(以下略)

 創立80周年は1953(昭和28)年にあたり、上記文中には「現在の校旗は二代目とのことです」とあります。「真紅」とありますが、校旗の地色は赤みがかった朱色で、本校のスクール・カラーとされます。
 今回の新調からさかのぼって最も近い新調は、「学校要覧」に1966(昭和41)年12月とあり、この時の校旗を三代目とすると、二代目校旗から三代目校旗までの間隔がやや短く思われますが、今回新調された校旗は四代目になります。
 なお、2020(令和2)6月には應援團の団旗が大垣共立銀行とマツバラ興業(鋳造資材会社)から寄贈されました。団旗は横4㍍、縦2.7㍍の大きさで、中央には校章が配され、「岐阜縣立岐阜高等學校應援團」と染め抜かれています。野球などの大会では観客席に翩翻と翻ります。

「古往今来」の筆者による註記
❶塩瀬(しおぜ)は、羽二重(はぶたえ)風の厚手の織物で、経(たて)糸を密にして太い緯(よこ)糸を包んで線状の畝(うね)を出したものです。
❷千段巻は旗竿(旗棒)の表面に籐や麻苧を巻き付けて塗り固めた仕上げです。
❸林 釟蔵(第15代、在職;1905(明治38)年9月~1911(明治44)年6月)
❹前島吉徳については「古往今来」第21話「剣術の達人、前島吉徳《明治の群像・1》 」
❺奉安所(奉安殿)は、御真影、教育勅語謄本などを収めるために作られた施設のことで、大正半ばから戦前にかけて全国に普及しました。
❻「箱根の山」(箱根八里)(鳥居 忱・作詞、滝 廉太郎・作曲)は、〝箱根の山は天下の嶮(けん) 函谷關(かんこくかん)もものならず〟で始まり、その詩には、李白の漢詩、中国の故事や古典・歴史に由来する地名・事項が盛り込まれています。
❼寄宿舎での生活の様子は『岐高百年史』の147㌻(1893(明治26)年の項)、297㌻(1914(大正3)年の項)に記されています。合わせて寄宿舎に関する記述を引用します。
-1873(明治6)年: 岐阜町小学義校開業願書の塾則「寄宿望ノ生徒アラハ其請ニ任スヘキ事
-1882(明治15)年: 「そのころは県下で一つの学校だから、生徒は寄宿舎にはいるのが原則で、舎則は厳格
-1886(明治19)年: 岐阜県中学校規則・第八章(寄宿舎規則)「生徒勉学ノ為メ寄宿舎ヲ設ケ、自宅ニ在シ(中略)ノ外ハ、必ス入舎セシムヘキモノトス
-1909(明治42)年: 「中学校では寄宿舎の増築が急務
-1910(明治43)年: 4月「寄宿舎落成
-1925(大正14)年: 3月「中学校の寄宿舎を廃す

参考文献
「岐高八十年」園部義邦編(1953年)
「岐高百年史」清 信重著(1973年)
「校旗の誕生」水崎雄文著(青弓社、2004年)


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