古往今来

2024(令和6)年3月

第18話 ■岐阜高校通信制課程の36年間

 

 岐阜高校には、1947(昭和22)年から1983(昭和58)年までの36年間、通信制課程が設置されていました。今回はその閉校時に刊行された記念誌から通信制課程の歴史の一端をご紹介します。

1947年3月23日に岐阜県通信教育規則が公布され、同日に「岐阜県立第一中学校通信教育部」(定員200人)が認可されました。1948(昭和23)年4月には学制改革によって「岐阜県立岐阜第一高等学校通信教育部」と改称され、先ずは「国語」、「解析Ⅰ」が開講されました。その後、開講科目は年を追うごとに増えていきました。1948年8月には学校統合を経て「岐阜県立岐阜高等学校通信制課程」となり、9月には機関紙「岐髙通信」が発刊されました。
 1949(昭和24)年には生徒会「笈友会」が発足しました。「笈友会」の名は、1957(昭和32)年に生徒会が「岐阜高校通信課程生徒会」と改称されたときに同窓会の名称となりました。1951(昭和26)年には大学入学資格検定の制度が公布されて10月に第1回の検定試験が本校で実施され、1952(昭和27)年3月には初めての卒業生(1人)を送り出しました。
 1953(昭和28)年度からはNHKラジオ第二放送の番組『通信高校講座』が始まりました。初めての体育祭は1955(昭和30)年10月に行われ、以後毎年開催されました。1961(昭和36)年には学校教育法が改正され、通信制課程は全日制課程、定時制課程と並ぶ高等学校の課程として位置付けられました。

 「岐髙通信」の第一巻第一号(昭和23年9月16日発行)の第一面には、伊藤喜一校長(第27代、在任1947~1954)による「通信教育生諸君に望む」が掲載されています。その言葉は、戦争を終えて新たな教育が再開された喜びと共に、新生日本を支えつつ学ぶ生徒への期待に満ちています。

――諸君の母校である岐阜第一高等学校は、今般の高等学校再設置によりまして岐阜女子高等学校と合体して八月十八日から岐阜縣立岐阜高等学校として今までの岐阜一高の場所で再出発することになりました。男女共学です。一千五百有余名の生徒諸君は元気百倍、研学に精進してくれるものと期待申してゐます。小生も幸にして同日付で新高校の学校長を拝命申しました。
 大縄場の地は、今や、従来の岐阜一高と岐阜女子高校と、定時制高校の岐阜第三高等学校(此の度岐阜縣立華陽高等学校と改名されました)と諸君の通信教育部とが渾然一体となつて新日本建設の大使命を持つ若人を養成する一大学園となつたのであります。岐阜縣の文化は大縄場の地から!と私は窃かに念願申してゐます。
 (中略)諸君は働きつゝ而も研学の熱意に燃えてゐます。その諸君に私は通信教育の一端として、河合栄治郎著「自由主義の擁護」を御推薦申します。河合栄治郎は東京帝大の教授でありましたが、その奉ずる思想が理想主義的個人主義を基礎とする自由主義であり、社会経済思想としては社会主義を、政治思想としては民主々義でありましたから、戦事中重なる弾圧があり、遂には東大を追はれ、最後には安寧秩序紊乱の故をもつて検事局に起訴され、大審院で有罪と決定されたのであります。「自由主義の擁護」を諸君が読まれて、始めはむつかしいと思はれるかも知れませぬが、二度三度と讀んで行かれる中には、必ず民主日本の中堅たらむと精進せられる諸君に、良い道先案内になる何ものかを與えて呉れると信じます。是非御一読をお奬め申します。讀後感をどしどし通信して下さい。許す限り私として御返事を差上げたいと存じてゐます。
 諸君の御奮斗を心から祈ります。

     一九四八・九・四・朝 記す

 岐阜高校通信制課程が創立30周年を迎えた1978(昭和53)年、華陽高校(現・岐阜県立華陽フロンティア高等学校通信制課程)との統合が発表されました。その翌年には華陽高校での募集が始まり、本校の通信制課程の募集は停止されました。次いで1980(昭和55)年4月には通信制課程が華陽高校の校舎に移転し、1983年3月には最後の卒業式が行われました。

参考文献 「岐高通信記念誌」岐阜高校通信制課程編(1983年)


岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内