2024(令和6)年10月
第25話 ■英語学の泰斗、斎藤秀三郎《明治の群像・4》
斎藤秀三郎(1866~1929)は宮城県仙台市で仙台藩の運上方の役人であった斎藤永頼(えいらい)の長男として生まれました。明治期の英学では、東京外国語大学初代校長の神田乃武(ないぶ)、経済学者で法学者の和田垣謙三と並び称された人です。
斎藤は、8歳で宮城英語学校に入って米国人教師に英語を学び、上京して東京大学予備門を経て1880(明治13)年に工部大学校(現・東京大学工学部)に進みました。当時、工部大学校では、学科はほぼ全て英語で教授されていました。斎藤は、造船、化学を専攻しましたが、学ぶうちに英語そのものに興味を見出し、1883(明治16)年に退学しました。しかし、在学した3年間で図書館にある英書を読み尽くし、『大英百科事典』(全35巻)は二度読み通しました。
斎藤は、故地の仙台に戻って英語の私塾を開き、その翌年には仙台英語学校を創設しました。この頃の逸話として、吉野作造は、斎藤の私塾に加わりましたが塾頭の短気に恐れをなして一日で辞めたとされ、「荒城の月」の作詞で知られる土井晩翠がイギリスの詩人G.バイロンの作品を訳したのは斎藤の影響とされます。『英文解釈研究』などの著作で知られる山崎 貞も斎藤の教え子です。
斎藤は、1887(明治20)年に第二高等学校助教授、1889(明治22)年に岐阜中学校教授になりました。斎藤は努力と勉強の人で、性格は頑固一徹、英語力の自信はその努力に裏付けられたものでした。
斎藤が第二高等学校を辞めたきっかけは、彼が授業で使用していた英書について、生徒には難しいと米国人主任が意見したことでした。これに対して斎藤は「アメリカ人には難しくて解らないかもしれないが、日本人には解る」として譲らず、奮然として同校を去ったとされます。
岐阜中学校時代の1891(明治24)年10月には濃尾震災が起き、斎藤の住家は倒壊しました。このとき斎藤は妻子を仙台に帰郷させ、単身で下宿生活を続けました。
在職中に英語教員の資格試験が実施されたとき、校長❶から中学校英語教師の資格試験の受験を勧められた斎藤は、「誰が私を試験するのですか」と言い放ち、またも辞職しました。
その後の斎藤は、長崎県、愛知県での教授職を経て、1893(明治26)年に第一高等学校(後の東京大学教養学部)の教授となりました。斎藤は、1896(明治29)年に神田錦町に正則英語学校(現・正則学園高等学校)❷を創立して校長となり、以後は同校を本拠として教育・研究を行いました。同校の外国人教員の採用では、斎藤自らが試験官となって採否を決めました。
◇
斎藤は英語で教育を受け、当時は通例であった漢学などの教育を受けてきませんでした。彼の著作の一つである『斎藤和英大辞典』の「犠牲」の項目には、文例として、”I learned my English at the expense of my Japanese.”(私は日本語を犠牲にして英語を学んだ。)が挙げられているほどです。斎藤は両親への手紙も英語で書き、それを受け取った父親は辞書を引きながら読んだとされます。
斎藤は多くの教科書を執筆し、辞書・文法書の編纂にも優れた業績を残しました。代表的な著書は前置詞の研究書『Monograph on Prepositions』(前置詞大完、全13巻)です。同書について『英語達人列伝』では、前置詞は理論的に説明しにくい品詞であり、熟語や慣用句の一部として扱われることが多いが、同書は前置詞と真っ向から取り組み、膨大な実例に則して説明されている、としています。『Monograph on Prepositions』は世界の英語界で評価が高く、外務省はノーベル賞委員会に斎藤を推薦しましたが、残念なことに彼の生前には間に合いませんでした。
斎藤の著作物のうち、校史資料室には次の諸書を所蔵しています。
「斎藤和英大辭典」斎藤秀三郎著(日英社、1928年)(*)
「SAITO’S MONOGRAPH ON PREPOSITIONS」齋藤秀三郎著(正則英語學校出版部、1932年)
「英文法研究」斎藤秀三郎原著、松田福松訳編(吾妻書房、1957年~1959年)
①冠詞用法詳解 ③助動詞用法詳解 (②前置詞用法詳解は欠本)
④准動詞用法詳解 ⑤動詞構文詳解 ⑥代名詞用法詳解
⑦名詞用法詳解 ⑧形容詞用法詳解 ⑨副詞・接続詞用法詳解
⑩叙法・時制詳解
「熟語本位 英和中辭典 新增補版」斎藤秀三郎著、豐田 実增補(岩波書店、1972年)
「斎藤和英大辭典」斎藤秀三郎著(名著普及会、1979年)(*の復刻版)
「斎藤秀三郎伝 その生涯と業績」大村喜吉著(吾妻書房、1987年)
「古往今来」の著者による註記
❶斎藤が岐阜中学校に在職した時期の校長
松本 廉平、1888(明治21)年4月~1889(明治22)年4月
岸田 正、1889(明治22)年5月~1891(明治24)年6月
田口虎之助、1891(明治24)年7月~1896(明治29)年4月
❷新たな学校の校名について、斎藤の一番弟子であった伝法(つのり)久太郎は「これまでの発音無視で訳読中心の英語を一種の変則流なものとするならば、こちらは正則英語でいく」と提案し、斎藤は「正則」を校名としました。日英同盟の締結が契機となって英学ブームが起こると、全盛期には生徒数が5000人を超えました。大教室から溢れた学徒は、雨の日でも傘をさして窓外から聴講したほどでした。
参考文献
「岐高百年史」清 信重著(1973年)
「英語達人列伝 あっぱれ、日本人の英語」斎藤兆史著(中公新書、2000年)(同書の著者、斎藤兆史氏は2016(平成28)年9月に行われた体験プログラム(教養系)「語学・文学研究の楽しさ」で来校されました)
岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内