古往今来

2025(令和7)年2月

 

 第六號に掲載された「修學旅行紀事」の続きは見付けられませんでした。高木の在籍期間を考えると、第拾壹號または第拾弐號にある可能性が残りますが、この2巻は確認できていません。
 岐阜県歴史博物館の閲覧室で『學術講談會雑誌』の第六號のページを繰っていると、秋の日の夕暮れが迫る頃、T.Takagiによる英文「THE MEETING OF YOSHITSUNE AND BENKEI」が目に飛び込んできました。『學術講談會雑誌』・第六號の「文藻」(28~29㌻)と第八號の「文藻」(26~28㌻)にわたる英文の「義経と弁慶」は、記された学年から推して高木貞治の作文と思われます。
 平安時代の史実を英文にするという意欲が感じられ、学校に戻って英語科教諭に見ていただくと、物語を意訳せず文意に近い単語が用いられており、英国式の英語で比較的硬い調子で書かれている感触を受ける、とのことでした。

  『學術講談會雑誌』は、岐阜県尋常中学校の学術講談会雑誌部から刊行された雑誌で、後の校友会誌『華陽』の前身です。第壹號は菊版本文二段組34㌻で、裏表紙には「逓信省認可」とあります。第拾號までの発刊日は次の通りです。
  明治23年 7月18日、9月18日、10月20日、11月20日、12月18日
  明治24年 1月23日、2月23日、3月26日、4月30日、6月8日
 なお、国立国会図書館のデジタル化資料では、第拾號には5月30日と印刷され、手書きで6月8日と修正されています。本校の校史資料室には第壹號の表紙と第參拾九號、第四拾號があります。
 学術講談会雑誌部規則の第二条には「本部ハ毎月一回(八月ヲ除ク)学術講談会雑誌ヲ発兌シ之ヲ会員ニ頒布ス」(『岐高百年史』p.130)とあります。また、同第五条には、本部に役員として幹事2名、編輯長1名、編輯員3名を置くことが規定され、高木も、前話の文中に気象観測を行ったとして登場する教師麻生繁雄も、編集員(任期は6か月)に加わったことがありました。

 高木が書いた「修學旅行紀事」に関連して、『岐高百年史』の明治23年の記述には「一〇月二一日~二四日。中学校の校長以下職員四人、生徒六〇名、飛騨地方へ「遠足運動」を行う。これも全行程を徒歩旅行である。」(p.132)とあります。
 当時は「修学旅行」と「遠行運動(あるいは遠足)」には、さほどの区別はありませんでした。同じく明治23年の記述には「一月一二日~一八日。「中学校では教師一二、生徒一二〇で三重県地方へ遠足をする。」の記録がある。汽車で熱田、船で伊勢の神社港、伊勢参拝、以後、連日徒歩で一週間の旅だった。」(p.128)とあります。
 この頃の中学校では、英語の教育に熱が入れられました。具体的には、「単に語学としての英語のほかに、「地理、代数、幾何も原語(英語)の教科書で、試験の答案も英語で書くありさまだった」(p.127)とあり、麻生も「地理を教え英語で朗読してこれを筆記させた」(p.127)とあります。上級学校にあたる大学でも多くの講義は英語で教授されていました。
  『数学の自由性』で高木は、随想〈中学時代のこと〉に次のように書いています

――パーレーの万国史、スウィントンの万国史、それからロスコーの無機化学、スチュワートの物理学などを記憶している。これらはいずれも本国で相当有名な本であった。このような本をすっかり読むのは、特に初級生には無理であったから、先生が大意を講義して、吾々はそれを筆記する。だから教科書というよりも、むしろ今いう参考書に近いものであった。数学ではトードハンターの小代数、ウィルソンの幾何学を使った。これも代数の説明などは2年生にはとても読めないから、先生が説明して、本では問題だけを見るというようなことであった。
 それでも、吾々が卒業する頃には、日本語の教科書が、ぼつぼつ出るようになった。(中略)今思ってみると、吾々のうけた中等教育は――そう言っては、忘恩かも知れないが――実際ずいぶん乱暴なものであった。

高木貞治のレリーフ
 国立科学博物館(東京・上野恩賜公園)にある 「科学技術の偉人たち-日本の科学者・技術者-」より(令和6年3月・撮影)

 第九號の「會録」の〈會員の移動〉に次の記述があります。
――通常會員ナリシ神田喜三郎、大矢松太郎、高木貞治、村木忠衛、大塚泰次郎の諸君は今般特別會員となられたり。
 学術講談会規則・第四条によれば、会員は名誉会員(本校職員)と通常会員(生徒)の二種とする、とありますが、特別会員の位置付けに関しては不明です。

参考文献
「岐高百年史」清 信重著(1973年)
「数学の自由性」高木貞治著(ちくま学芸文庫、2010年)


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