古往今来

2025(令和7)年5月

 

 関谷仙三翁は今もグラウンドの選手たちを三塁側から見つめています。この像は、1973(昭和48)年7月に同氏の長年にわたる野球部への貢献に対して同窓会から贈られたものです。しかしその翌年7月に関谷氏は急逝されました。
  『岐中岐高野球百年史』の巻頭部には、編纂委員による「追憶 県高校野球育ての親 関谷仙三」があります。その冒頭には「岐阜の飛田穂洲といわれる関谷仙三の生涯は、県中等学校野球・高等学校野球の歩みそのものであった」と記されています。

関谷仙三翁像(令和7年1月・撮影)

 飛田穂洲(とびた・すいしゅう、本名・忠順(ただより)、1886~1965)は、茨城県東茨城郡大場村(現・水戸市)に生まれ、旧制水戸中学校(現・茨城県立水戸第一高校)から1907(明治40)年に早稲田大学専門部法学科に進学し、早大野球部で五代目主将となりました。
 大学を卒業後は、読売新聞社の記者を経て早大野球部の監督となりました。1926(大正15)年には朝日新聞社に入り、野球評論に健筆を振るいました。高校野球(戦前は中等学校野球)、大学野球への貢献で1957(昭和32)年に紫綬褒章を受章、1960(昭和35)年には野球殿堂入りとなりました。
 飛田は、西洋から伝えられたベースボールを日本の武道に通じる「野球道」として捉え、試合よりも練習に取り組む姿勢を重視して学生野球は教育の一環であると説き、〝学生野球の父〟とも呼ばれます。「一球入魂」の言葉は野球に取り組む姿勢を飛田が表したものです。

 関谷は1884(明治17)年に本巣郡本田(ほんでん)村(現・瑞穂市本田)に生まれ、1898(明治31)年に岐阜中学校に入りました。野球部では一塁手でした。
  『岐中岐高野球百年史』から1902(明治35)年9月の第一回東海五県連合野球大会の記事を拾います。同大会は9月6日・7日に愛知一中(現・愛知県立旭丘高校)のグラウンドで行われました。対象は岐阜・愛知・三重・静岡・滋賀の5県で、岐阜中・大垣中(現・岐阜県立大垣北高校)・愛知一中・豊橋中(現・愛知県立時習館高校)・浜松中(現・静岡県立浜松北高校)の5校が参加しました。
 岐阜中はこの大会に先立つ6月に行われた愛知一中との試合で1-19と大敗を喫していました。夏休みに入ったある日、関谷は同級の杉山好成と共に校長官舎に呼ばれて大会への出場を告げられ、「優勝の栄冠を持ち帰ってくれ」と激励されました。そこで両名は郡部在住の選手宅を泊まりがけで回って呼び集め、「寄宿舎に合宿し、宿敵愛知一中何するものぞと猛練習にはげみ大会に備えた」のです。
 試合の結果は次の通りで、岐阜中は一勝一敗。同じく一勝一敗の愛知一中、豊橋中と共に2位でした。

 チーム
 豊橋中
 岐阜中×10
 チーム
 岐阜中
愛知一中×11

 卒業後、関谷は本田銀行(現・大垣共立銀行)に勤務し、本田村議会の議員を兼ねながら母校の野球部を支援しました。1919(大正8)年に岐中野球部後援会ができると筆頭幹事、1930(昭和5)年には初代会長になりました。
 関谷は、家が遠い部員を自宅に寄宿させたり、合宿に米、ボタ餅、卵などを差し入れたりし、大会ではライン引きや撒水を行いました。太平洋戦争の岐阜空襲で校舎が焼失した時には、野球用具一式を寄贈しました。県内では、1948(昭和23)年から県高野連顧問、1955(昭和30)年から県体協顧問などを務め、社会体育にも貢献しました。

 岐阜の野球を支えた関谷翁の死は、次のように報じられました。
――「三回戦で県岐商×岐阜が熱戦を展開した時も、仙三翁のまくら元でテレビをつけていたが、その時はすでに意識はなかったという。そして大会五日目を迎えたこの日翁が他界した時間に悲しむかのように強い雨が降り始め、」(1974(昭和49)年7月25日付け岐阜日日新聞朝刊「県高校野球〝育ての親〟関谷仙三さん死去」より)
 渡辺佐一氏(県高野連会長)の言葉――「先生は第五十六回夏の高校野球県大会の応援、歓声があがる中で永眠されました。」(7月27日付け同紙朝刊「焼香者が長い列 しめやかに故関谷氏葬儀」より)

参考文献
「岐中岐高野球百年史」岐中岐高野球創部百年記念行事実行委員会、河嶋 章編著(1984年)
「熱球三十年 草創期の日本野球史」飛田穂洲著(中央公論新社、2005年)


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