古往今来

2023(令和5)年4月

第7話 ■友學館(林間学舎)・1

 創立100周年の際に編まれた小冊子『岐高百年』には,〈百年回顧〉に深井重三郎校長(第32代,在職昭和42年4月~44年3月)による随想「岐高「山の家」余談」(p.81~82)が収められています。(以下は抜粋,語注は「古往今来」の筆者によります)

 ふりかえって岐高の在任二カ年は、「山の家」建設に始まり終った感が深い。永井校長、水谷PTA会長をはじめ皆さんの大変な熱心と尽力で、すでに資金計画、用地買収も終わった段階で、わたしの役割はいよいよ本設計と詳細な建築運営の企画が中心であった。
 坂田美郎氏設計、小林建設施工で優秀な建築として業界からの受賞を受ける出来ばえで心を寄せた方々もひとしおの感銘であった。(中略)高原川洪水禍と前後して建設省の改修事業が進み、土地の人々も工事現場の労働で生計を立てていたが、温泉掘り当てという事態から今日の盛況をみることになった。温泉組合の代表者近藤英雄氏は東京在住で、手広く旅館を経営されている人である。四月三十日に水谷会長さんと連れだって訪問することになった。なにさま(注・まったく)初対面でもあり、導入の了解が得られるかどうか、不安この上ないことであった。旅館の法被姿で迎えられ、鉄火な(注・威勢よい)応待ぶりに肝をつぶし辟易しながらも、やっとの思いで説得、了解を取付けたときは、全く冷汗ものであった。

 文中の「永井校長」は永井 孝校長(第31代,在職昭和38年4月~42年3月)、「水谷PTA会長」は水谷清吉氏です。「坂田美郎氏」は建築家で、特徴ある建物の設計は坂田美郎(よしろう)氏によります。また、「高原川洪水禍」について、昭和以降で学舎完成までに神通川流域で起きた大規模な土砂災害を挙げると、1958(昭和33)7月26日の蒲田川と平湯川での土石流、1961(昭和36)年6月の小糸谷での土石流などです。
 林間学舎が完成した翌月には「飛騨川バス転落事故」が起きました。1968(昭和43)年8月に加茂郡白川町の国道41号線で集中豪雨に伴う土石流にバスが巻き込まれ、増水した飛騨川に転落して多数の犠牲者を出しました。深井校長もその豪雨を経験されました。

 飛水峡にかかるころから十メートル先の見分けのつかぬ篠突く雨となっていた。白川口、下呂小坂と降りつづき、やっと宮峠を越えるころに小降りとなり薄青い空がのぞかれるようになった。八月十八日、大惨事となった集中豪雨による飛騨川パス転落事故の前日のことである。生物研究クラブの宿泊もあり、後始末と休養を兼ねての山ゆきであった。あくる朝、〝大変な雨降りで一晩中眠れなかったろう?〟との近処の人たちの話に、鉄筋建と疲れでぐっすり寝込んでしまったわたしであったが、谷川をのぞくと巨岩がいくつも流れ落ちていて、夜中のすさまじい音で眠りつけなかった集落の人たちの様子が想像されたのであった。正午に事故のニュースを聞き、高山とも連絡をつけて岐阜へ帰る予定のクラブ員を、高山、白鳥経由で無事帰すことが出来たことであった。悲惨きわまりない事故現場の生々しい様子を見て帰ってからは、一層生徒たちの安全性の確認ということが、〝山の家〟の運営として痛感されたことである。
 ともあれ、〝山の家〟設立の教育目的を確かめながら、人間形成の場としての活用を、さらにさらに掘り下げて欲しいものと念願している。

 

 写真(左)は林間学舎が完成した1968年の栞で、以下はその目次です。林間学舎の建設の経緯に始まり、林間学舎活動に関連して登山のガイダンス、奥飛騨地方の自然と地誌にも及んでいます。

 1 林間学舎の概要
    建設の趣旨  経過  施設設備  利用の範囲  方法  規定
 2  林間学舎を中心とする集団生活の指導計画
 3  日程、編成表
 4  登山ハイキングの手引
    心得  服装  携行品  健康上の注意
 5  中尾峠への登山
 6  奥飛の自然と文化
  イ 上宝村
     村勢と歴史  村内点描
  ロ 林間学舎附近
     中尾部落とその周辺  動植物の概要  地形地質気象のあらまし
 7  沿線案内
    41号線に沿うて
 8  飛騨に関する文学作品
 9  林間学舎附近の概念図

 写真(右)は校史資料室にある林間学舎の模型で、川のある西面の方向から撮影しました。栞の表紙にはこの模型の写真が使われたようです。

参考文献:「岐高百年」岐高百年編集係編(1973年)、林間学舎のしおり(1968年)


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