
2025(令和7)年9月
校史資料室には様々な資料が保存・展示されていますが,戦前の資料は極端に少ないです。それは空襲による校舎の火災で失われたからです。岐高新聞「百年祭特集号」(1973年10月7日刊)の〈岐高百年祭こぼれ話〉には次のように記されています。――「本校は戦災のために本館を含む校舎の9割を焼失し,古文書類は何一つ残っていない。(中略)どこに行けばどんな資料があるのか皆目見当がつかないのである。」
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1944(昭和19)年から学徒勤労動員が通年で実施されるようになって工場勤務への中等学校三年生以上の本格的な動員が始まると,教室での授業はほとんど行われなくなりました。岐阜市内の岐中・岐高女,岐阜二中・加納高女(現・加納高),岐阜商業(現・県岐商),富田高女(現・富田高)では授業が停止され,軍需工場に動員されました。中には学徒兵の募集に応じたり,陸軍士官学校,海軍兵学校に進学したりする生徒もいました。
勤労動員の生徒は工場の従業員と同じく午前8時から午後5時まで勤務し,夜勤もありました。1945(昭和20)年に入って空襲が激化すると,岐高女・加納高女・富田高女の工場動員は廃止され,「学校工場」と称して教室や雨天体操場(体育館)での飛行機部品などの製作に切り替えられました。同時期には,中等学校一・二年生は農作業奉仕,防空壕掘削,間引き家屋の撤去,学校農園や空き地での食糧作物の生産にあたりました。
記念冊子『岐高百年』には,創立100周年を前にした1973(昭和48)年2月に行われた二つの座談会が記録されています。いずれも第二次大戦中の学校生活に関するもので,それぞれから抜粋してご紹介します。
「大戦中の岐中生活の思い出」(出席者8人)から〈勤労動員〉
(昭和)19年になると、本格的な勤労動員が始まった。三年生と五年生は航空廠、四年生は川崎航空機へ行った。毎朝十六銀行の空地に集合して、すしづめの電車で三柿野まで通った。学校へは一週間に一度くらいしか行かなかった。終戦近くになると、夜勤もさせられるようになり、仕事がいやでたまらなかったので、空襲警報で「B29が南方海上へ退去した」というラジオのことばをもじって、夜勤の組が「南方へ退去する」といって、飛行場を横切って、山の南側に逃げてサボッタ。わかったらたいへんなことであったであろうが――
「大戦中の岐高女生活」(出席者14人)から〈岐阜空襲・終戦の頃について〉
逃避先が学校より西へときめてありましたが、その方面も被災してしまいまして、昼間でしたら生徒にもかなり犠牲者が出るところだったのでしょうが、夜間だったことが不幸中の幸いでした。
翌日学校へきたら記念館だけ残っていたということでしたね。
直後はしばらく休校でした。生徒も罹災した人達は家の関係で学校をやめたり転校したりで、専攻科は半数ぐらいになりました。
登校しても焼跡の整理に追われて……。そのうちに工場から木材がきて、粗末なバラックを建ててもらいました。
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玄関ピロティに近い植栽に校舎改築記念碑があります。
この碑は,1938(昭和13)年の旧制岐阜中学校の卒業生らでつくる「寿山会」(代表者・信田義朗氏)から贈られたものです。会の名称には卒業年の「じゅうさん」が込められています。記念碑の贈呈については,校舎改築工事の起工式の2年前にあたる2008(平成20)年,卒業後70年を機に寿山会から申し出を受けましたが,新校舎の管理棟が完成するまで設置を待っていただきました。

記念碑は,高さ80㌢・横幅110㌢・厚さ15㌢で,十二単にならって色と大きさが異なる6種類の御影石(花崗岩の石材)を重ねた造りになっています。正面には,江戸時代の国学者である本居宣長がヤマザクラ(山桜)を詠んだ和歌が刻まれ(揮毫は芸術科(書道)の毛利慶子教諭による),記念樹のヤマザクラ3本が付近に植えられました。
しき嶋の やまとごころを 人とはば
朝日ににほふ 山ざくら花
本居宣長詠 毛利慶子書
卒業時に約200人だった同級生は,戦争で亡くなられるなどして,記念碑設置の式が行われた2011(平成23)年1月には6人でした。式に臨んで,寿山会の信田代表は,「太平洋戦争で多くの同窓生が亡くなり,この日を迎えられたのは無上の喜び。皆さんと桜の成長を願っています」と挨拶されました。
参考文献
「岐高百年」「岐高百年」編集係編(1973年)
岐高新聞「百年祭特集号」(1973年)
岐高だより・第102号(2011年)
岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内