古往今来

2025(令和7)年3月

 

 校史資料室に、お茶の水女子大学から寄贈された『保井コノ資料目録』があります。保井コノ(1880~1971)は男女差別の著しい時代に女性科学者の道を拓いた人です。

保井コノ資料目録

 保井は、愛媛県大内郡三本松村(現・香川県東かがわ市三本松)に生まれ、香川県師範学校(現・香川大学)女子部を経て女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に理科一回生として入学しました。その後、岐阜高等女学校と東京・神田の共立女子職業学校(現・共立女子中学高等学校)で3年間教師を務めました。
 三本松は江戸時代に藩が砂糖会所(取引所)を設け、砂糖の積出港として栄えた所です。保井家は廻船問屋を営んで北前船を運航し、広い田畑も所有していました。コノという名前は、父方の祖母コノが利発な人だったので選ばれたといいます。
 明治半ば、母のムメは輸送変革の趨勢を見抜いて廻船問屋の経営を終え、田畑を整理して大阪に移り、借家や紡績会社の女子寮を営みました。さらに関東大震災の後に東京に移り、借家や下宿を営みました。コノが上級学校への進学を望むと、ムメは、「私が何とでもするから」と励まし、コノは女高師に進学したのです。これを機にコノは東京に移り、以後は終生妹のマサと同居し、マサは日本画を学びました。
 女高師の学費は国費で賄われ、卒業生は全員教員になりました。岐高女に理科教員として赴任した保井に、恩師で物理学者の飯盛挺造は、高等女学校向けの物理学教科書の執筆を勧め、保井は原稿を書き上げました。しかし、文部省(当時)は女性に教科書が書けるはずはないとの偏見から、飯盛の尽力にもかかわらず、検定を認めませんでした。保井はこのときの悔しさを生涯忘れず、以後は研究書以外は執筆しませんでした。
 次いで1905(明治38)年、保井は新設されて間もない女子高等師範学校専修科にただ一人の理科研究生として入り、動物学と植物学を専攻しました。同年に発表された論文『鯉のウェーベル氏器官について』は日本初の女性科学者による学術論文でした。なお、ウェーベル氏器官は、骨鰾上目(こっぴょうじょうもく;コイ目、ナマズ目など)に見られる鰾(浮き袋)と内耳を連絡する聴覚器官です。

 日本に西洋の諸文明が移入されると、女性による自然科学の研究も始まり、医師や教師への道が次第に開かれました。学位の取得については、最初期には外国での学位取得が不可欠で、国内での学位取得の道が開かれてからも外国留学は前提でした。
 保井は1913(大正2)年に文部省の外国留学生としてドイツ及びアメリカに在外研究を命じられ、1914(大正3)年にシカゴ大学で細胞学の研究を始めました。しかし、その年の8月に第一次世界大戦が始まってドイツ軍はロシア、ベルギー、フランスに宣戦を布告したので、保井はドイツへの留学を断念するに至りました。  1915(大正4)年にはハーバード大学の古植物学者C.ジェフレーのもとで石炭の研究を始めました。これは1910(明治43)年にイギリスの古植物学者M.ストープスと藤井健次郎の共著による日本の古植物化石の報告論文が契機とされます。保井は、1916(大正5)年に帰国し、東京女子高等師範学校となった母校の教授を務めながら、東京帝国大学の嘱託として藤井健次郎のもとで石炭の研究を続けました。その成果は、1927(昭和2)年の学位論文『日本産の亜炭、褐炭、瀝青炭の構造について』に結実し、日本の大学で女性初の理学博士の学位を東京帝国大学より受けました。

保井コノのレリーフ
国立科学博物館(東京・上野恩賜公園)にある 「科学技術の偉人たち-日本の科学者・技術者-」より(令和6年3月・撮影)

参考文献
「保井コノ資料目録」三木寿子著、舘かおる・小山直子・お茶の水女子大学ジェンダー研究センター編(2004年)
保井コノの生涯、お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ(http://www.igs.ocha.ac.jp)


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