
2025(令和7)年6月
旧制中学校は、明治期の中学校令で各道府県(当時)に1校以上の設立が規定され、男子に対して中等教育(普通教育)を行いました。入学資格は尋常小学校(後に国民学校初等科)を卒業していることで、修業年限は5年間でした。修業年限は、1943(昭和18)年に制定された中等学校令によって4年間に短縮されましたが、戦後は5年間に戻され、1947(昭和22)年に施行された学校教育法によって高等学校(新制)に移行しました。
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原 徹一(はら・てついち、1892~1945)は、恵那郡坂下村(現・中津川市川上)に生まれ、旧制岐阜中学校に1905(明治38)年に入学して1910(明治43)年に卒業しました。

(写真提供・山下佳子氏)
校史資料室にある雑誌『華陽』の第四拾八號には、1909(明治42)年11月の創立記念日に行われた「創立記念大運動會記事」があり、その内容からは岐中健児の熱気が伝わってきます。
同誌には運動会のプログラム(種目)が克明に記録されており、その中の「第十四回 二百米」の記事に、原が同競技で三位であったことが記されています。なお、「第十四回 二百米」とは、200㍍競走がプログラムの14番目という意味です。
――揃つたり揃つたり。高飛びの名人高折あり。球界のキャプテン棚橋あり、加るに佐藤、長屋等球界の猛者あり。更に名代の洗濯竿も一二本あり、勝負を問はずして顔振れ既に千兩。 1 高折 二郎 2 棚橋喜三郎 3 原 徹一
大運動会のプログラム全体からは、200㍍の短距離走から1000㍍の中距離走まで競走が多く、そのほかには「武装競争」、「聯合發火演習」など、軍隊式な要素の強い競技も散見されます。

(写真提供・山下佳子氏)
原は、京都帝国大学工科大学工業化学科に学んで国立栄養研究所に勤め、佐伯 矩(さいき・ただす、1876~1959)所長のもとで栄養学の研究に取り組みました。
学校給食は1889(明治22)年に山形県で始まりました。常念寺の僧侶佐藤霊山を中心に、寺院の住職たちが大督寺(鶴岡市家中新町)の本堂の一部に忠愛小学校を創設し、住職たちは托鉢を行って弁当を持参できない児童のために昼食(白米握り飯・煮浸し・塩魚)を作りました。1959(昭和34)年には学校給食70周年を記念して大督寺に記念碑が建てられました。
原は、1921(大正10)年12月、郷里の川上尋常高等小学校(現・中津川市立川上小学校)で村費による全校児童(約250人)に給食を始めました。冬季(12月~4月)に味噌汁を提供するもので、その目的は貧困救済ではなく体格向上と栄養改善意識の啓発にありました。1922(大正11)年の文部省(当時)による学校給食状況調査によれば、全国で給食が実施されていた小学校は13校で、岐阜県では1校でした。
1923(大正12)年8月3日付けの東京朝日新聞には「珍しい文化的の小學校 村費で全體の生徒へ榮養辨當の供給 日本に今日唯一つ」と題する記事が掲載されました。その一部を引用します。
――この試みが行はれる前はどこの小學校にもあるように兒童はその辧当を隱して周圍に氣兼しながら食べていたものだが榮養食が平等に與へられることになつてからはこの習慣が全く拭ひ去られ兒童は顔を擡げて快活に食事するやうになり(後略)
この記事に見られるように、学校給食の開始は、児童の栄養改善に加えて心にも変化をもたらしました。
参考文献
「華陽」第四拾八號(岐阜縣立岐阜中学校華陽會、1910年)
「栄養学者佐伯矩伝」佐伯芳子著(玄同社、1999年)
「岐阜県教育史 別編一 ビジュアル版」岐阜県歴史資料保存協会編(2006年)
「給食の歴史」藤原辰史著(岩波書店、2019年)
学校給食の史的変遷と給食の現代的意義に関する考察、岸山絵里子・黒瀧秀久(旭川大学リポジトリ)
岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内