古往今来

2026(令和8)年3月

 『岐高百年史』にある「明治十六年岐阜町地図(部分)」(68㌻)には岐阜県庁、議事堂、警察本署、裁判所、監獄署などの官公庁のほかに、県立病院、医学校、そして県立華陽学校が描かれ、現在の司町を含む周辺の当時の様子が分かります。さらに、「女学」、「小学」とあって、前者は師範学校に附属する女子師範学校から独立した岐阜県女学校(女子師範学科と普通女学科)です。
 なお、県庁の庁舎は、1872(明治4)年に廃藩置県で岐阜県ができると旧・笠松村の笠松陣屋に置かれ、次いで本願寺岐阜別院(岐阜市西野町)に仮移転した後、1874(明治7年)に司町、1966(昭和41)年に岐阜市薮田南(現在地)に移転しました。

明治十六年岐阜町地図(部分)

 1880(明治13)年に岐阜県第一中学校と岐阜県師範学校が合併してできた岐阜県華陽学校は、前記の議事堂と病院の間にありました。
 岐阜県華陽学校規則の第一章(総則)・第一条には「本校ハ県立ニシテ普通中学科並ニ小学師範科ヲ授クル所トス」とあります。合併について『岐高百年史』には、「この両校は同一垣内に相隣接し、教諭も両校の兼務が多かった。運動場も共用していた。寄宿舎だけは南北にわかれていたが、食堂は共同であり、理化学実験室、体操教場も共用であった。名称は変わったが、内容は変わらない。中学も師範も生徒数はそれぞれほぼ一〇〇、合併して、二〇三、ほとんど従来に変わりはない」(70㌻)とあります。また、華陽学校については略図と共に次のように詳しく記されています。
--「中央に堀があって、その南にある一団に明治天皇行幸当時のままの二つの寄宿舎、六つずつの教場、中央が管理棟、校長室、応接所、監督席、幹事局、その中央が文庫である。西に物置、食堂があり、ほぼ左右均等にあるのは中学部と師範部であろう。堀をへだてて、理化学実験室、体操教場、遊歩場がある。(中略)文庫とは書庫であって、応接所は元来、寄宿生と外来者の応接のためのものであるが、これを図書縦覧所にあてた。堀は美江寺裏の用水堀に続いて、さらに東へ都賀佐町❶にのびていた。表門に向かって右にある「門監」は門番の所在するところ。「遊歩場」はのちの運動場で、東に通用門。周囲は土を盛って垣根になっている。中央事務棟は二階をせり持ち❷にして、その玄関付近は明治時代の典型的洋風建築である。幹事局には県学務課が置かれていた。学校内に行政局があるのは、東京の大学と同様である。」(86~87㌻)
 1883(明治16)年7月、華陽学校に農学校が合併して華陽学校農学部になりました。また、華陽学校中学部は大垣分校を合併し、農学部と中学部は互いに校地を交換して、中学部は京町へと移転しました。『岐高百年史』には、中学部の京町移転について「一番よろこんだのは中学部生徒であっただろう。創立以来はじめて独立の校舎に、のびのびとその手足をのばすことができた。この分離によって、中学校独立への第一歩が踏み出されたのである」(87㌻)と記されています。以来、中学校の校舎は大縄場に移転するまでの半世紀余の間、京町にありました。
 ここで、司町と京町の状況をまとめます。

 司町京町
1875(明治8)年 植物試験場が設立
1878(明治11)年 岐阜県農事講習場を併設
1880(明治13)年  岐阜県華陽学校
(中学科、師範科)
農学校と改称
(植物試験場は試作場となる)
1883(明治16)年  岐阜県華陽学校農学部
(校地交換による)
岐阜県華陽学校中学部
(校地交換による)
1896(明治29)年 小試験場が転入
1901(明治34)年 岐阜県農事試験場と改称
1904(明治37)年 岐阜県農事試験場が転出
1938(昭和13)年 岐阜県立中学校が転出
1939(昭和14)年 岐阜市立京町小学校が転入❸
2012(平成24)年 岐阜市立岐阜中央中学校が開校

 岐阜県農事試験場は現在の岐阜県農業技術センター(岐阜市又丸)の前身です。1875(明治8)、京町に植物試験場が設立され、1878(明治11)年には岐阜県農事講習場が併設されました。岐阜県農事講習場は1880(明治13)年に「農学校」と改称され、植物試験場は農学校の試作場となりました。また、京町には華陽学校中学部が移転するまで岐阜県農会❹があり、その敷地の約半分に名和昆虫研究所がありました。『ふるさと學校冩真帳』には『岐阜県農会雑誌号外名和昆虫研究所』(明治32年発行)から同研究所の写真(28㌻)が掲載されています。
 小試験場は、1895(明治28)年、岐阜県農会により山県郡粟野村(現・岐阜市粟野)に設置されました。その後、1896(明治29)年に京町に移転し、1901(明治34)年に岐阜県農事試験場となりました。岐阜県農事試験場は、1904(明治37)年に稲葉郡加納町に転出し、更に1925(大正14)年、本巣郡七郷村(現在地)に移転しました。

「古往今来」の筆者による註記
❶都賀佐町は現在の司町
❷「せり持ち」(迫持)は、門などの開口部の上部を楔形の石や煉瓦を積み上げて曲線状に構築したアーチのことです。
❸岐阜市立京町小学校の前身は1973(明治6)年に米屋町に開校した大観舎です。1891(明治24)年の濃尾震災で校舎が全焼したので1893(明治26)に鶯谷に新築移転し、更に1939(昭和14)年、京町の旧制岐阜中学校跡地に移転しました。岐阜市立京町小学校と改称されたのは1947(昭和22)年のことです。岐阜市立京町小学校は、2008(平成20)年に岐阜市立金華小学校と統合して岐阜市立岐阜小学校(大工町)になり、その跡地には、岐阜市立伊奈波中学校と岐阜市立明郷中学校が統合してできた岐阜市立岐阜中央中学校が2012(平成24)年に開校しました。
❹岐阜県農会は帝国農会の下部組織でした。1881(明治14)年にできた大日本農会、1895(明治28)年にできた全国農事会をもとにして、1907(明治40)年に中央機関として帝国農会ができました。帝国農会は、農業の技術的・経済的発展及び改良を目的として設立され、農業技術の指導、農業に関する調査研究、農産物価格の統制、小作争議の抑制、農民の福利増進などに取り組みました。帝国農会は、道府県及び郡市町村の農会の全国的中央機関でしたが、1943(昭和18)年に廃止され、中央農業会に統合されました。

参考文献
「増補 岐阜県案内 全」(1902年)
「岐高百年史」清 信重著(1973年)
「ふるさと學校冩真帳」岐阜県歴史資料保存協会編(岐阜県教育委員会、2007年)


岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内