古往今来

2023(令和5)年2月

第5話 ■岐中同窓会-明治期の設立と再建

 旧制・岐阜中学校の同窓会は1890(明治23)年に設立されました。1886(明治19)年5月に華陽学校が岐阜県中学校と岐阜県師範学校に分離してから4年を経ていました。
――「7月20日、中学同窓会を設立、27日、総会、以後7月総会を恒例とする。」(131頁、『岐高百年史』、以下同)

 この頃、旧制・岐中の校舎は京町(現・岐阜市立岐阜中央中学校の校地)にあり、1888(明治21)年には、生徒の制服(洋服、ホック止めの詰襟の上衣)を定め、制帽・校章が制定されました。
 次の絵は岐阜日日新聞に連載された『岐高百年史』の第45話の挿絵(上野たかし・作)です。旗にはM(middle)とS(school)を組み合わせた校章が描かれています。校章の意匠は、その後、校名が「岐阜県岐阜尋常中学校」と改称された1897(明治30)年に桜花になりました(当時は中央に「中」の文字)。

 その後の同窓会に関する記述を拾うと、1898(明治31)年に「8月21日 本校で岐中同窓会、のち伊奈波・水琴亭で宴会。40余名参加」(187~188頁)、1901(明治34)年に「8月3日、濃陽館で同窓会総会。前年に続く別派」(208頁)が見られます。
 次いで1913(大正2)年に同窓会が再建されました。――「8月15日、岐中同窓会。「同窓会刷新」の声があった。同窓会は明治23年創立。31年までは毎年総会の記録があるが、以後中絶、34年、民間有志の同窓会が、濃陽館に事務所を置いて、濃陽館や徳文で宴会があったが、会費も高く名士の会として一般には評判がよくなかった。この夏、再び校長を会長として再建された。」(292頁)このときの校長は依田喜一郎(第16代)でした。
 第一次世界大戦が始まった1914(大正3)年には、「7月25日、岐中同窓会の第二回総会」(295頁)とあります。第二回総会の様子については「講堂で総会を開き、寄宿舎食堂で会食、会費50銭。規約を改正、財団法人とする。基本金として華陽会から二千円の寄附金を得、さらに同窓生に呼びかけ寄附金を募ることとなった。在学生は毎月二銭を積み立てることになった。「会報第一号」を出す。」(295頁)とあります。

 1888(明治21)年には帽章が制定されました。帽章はM(middle)とS(school)を組み合わせた意匠でした。この時期の集合写真にはMSと桜花の帽章が混在しており、帽章の切り替えにはある程度の過渡期があったようです。
 1898(明治31)年の項には、帽章が「桜花」の意匠に変更された経緯について次のように記されています。なお、文の冒頭の「華陽」は雑誌『華陽』のことです。
――「「華陽」には帽章の変化について何も書いていないが、(中略)前年、校名を岐阜県岐阜尋常中学校と改め、中学校は県の中学校から岐阜市にある中学校へとその性格を変えた。華陽会の設立と時期を同じくしている。「華陽」の文字は「岐阜市」の異称であって岐阜県とは縁がないから、華陽会の名称は大垣中学に対抗した岐阜(市)の中学を意識したものである。帽章の「桜花」は「華陽」の「華」に対応するシンボルであるから、「桜花の中」という帽章も、華陽-岐阜の中学をシンボル化したものだ。したがってこのころに帽章の変化があったものと解したい。」(186頁)
 1901年には、県下4校の中学校がいずれも「岐阜県立」の冠称を付した校名になり、「岐阜県立岐阜中学校」と改称されました。このときの改称について『岐高百年史』には「「市立」「町立」の女学校が生まれたために「県立」と改めたものであろう」(207頁)と記されています。

参考文献:「岐高百年史」清 信重著(1973年)


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