2023(令和5)年3月
第6話 ■校歌の作詞者・作曲者と監修者
校歌の作詞者、松平 静は、1876(明治9)年に福井県敦賀市で神主の二男として生まれ、國學院に学んで枕草子を研究しました。卒業後に岐阜師範学校、岐阜中学校に国語の教員として就職し、17年間教鞭を執りました。その後は、岐阜の南宮神社、静岡の浅間神社、京都の北野天満宮、上賀茂神社(賀茂別雷(かもわけいかずち)神社)に神職として勤め、隠居後は北白川(京都市左京区)に住まい、枕草子の研究を続けました。
岐阜市堤外の岐阜公園(日中友好庭園の東端、岐阜市鵜飼観覧船造船所の前)には、松平の歌碑があります。歌碑は縦1.8㍍、横2.8㍍の大きさで、石組みの基壇(高さ1.2㍍)に載っています。歌は金華山を詠じています。
婦毛と耳盤 小田の蛙能 なくといふ山
時し久に こ可年花さ久 名久八しの山 静 八十六
(ふもとには おだのかはずの なくといふやま
ときしくに こがねはなさく なぐはしのやま)
石碑の裏面には、歌のかな表記と共に松平の略歴が刻されています。
松平静先生略歴 明治九年一月福井県敦賀市常宮において出生 国学院卒業後三十二年九月岐阜師範学校教諭 四十一年岐阜中学校教諭に任官 大正四年七月退職以来南宮神社浅間神社北野神社賀茂別雷神社の各宮司を歴任 昭和二十三年六月退官 京都北白河に閑居して今日に至る
昭和三十六年五月 松平静先生門下有志者建之
『岐高八十年』及び『岐高百年史』によれば、作曲者は伊藤栄治であることが分かります。伊藤は、1874(明治7)年に安八郡神戸町で生まれ、1895(明治28)年に岐阜師範学校を卒業し、大垣の七郷小学校に校長として赴任しました。
次いで東京音楽学校(現・国立大学法人東京芸術大学)に入り、1900(明治33)年、岐高女の創立と同時に音楽の教員として赴任し、1908(明治41)年からは岐中も兼務しました。1918(大正7)年には㈱松栄堂楽器(岐阜市神田町)を創業し、以後は富田高等女学校(現・富田高校)、佐々木高等女学校(現・鶯谷中学高校)にも音楽の教員として勤めました。
明治中期にアメリカから蓄音機が入ると、日本蓄音機商会(現・日本コロンビア)が蓄音機やレコード盤の生産を始め、大正期には洋楽が普及して楽器の需要が増えました。㈱松栄堂楽器は岐阜県で初めての洋楽器専門店で、1918年に日本楽器製造㈱(現・ヤマハ)の特約店になりました。当時の社員は多くが住み込みで、店は音楽愛好家が集まる場所でもありました。
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「岡野貞一伝記 岡野貞一とその名曲」に、岐中校歌は「作曲・岡野貞一、作詞・吉丸一昌」とあり、彼らの監修を受けたと考えられます。だとすると、『華陽・第五拾參號』の〈報告〉にある「音樂學校教授某氏」は、岡野貞一と考えられます。
岡野は1878(明治11)年に鳥取県邑美郡古市村(現・鳥取市古市)で生まれました。1897(明治30)年に高等師範学校附属音楽学校(後の東京音楽学校)本科に入学し、卒業後は母校で教鞭を執りつつ、文部省の唱歌編纂委員なども務め、昭和初期までに百余曲の校歌を作曲しました。
岡野の代表的な作品としては、唱歌「朧月夜」(作詞・高野辰之)、童謡「春が来た」(作詞・高野辰之)、童謡「桃太郎」(作詞・不詳)などが知られており、校歌では、筑波大学附属盲学校、群馬県立桐生高校、長野県松本深志高校、大阪府立北野高校、熊本県立熊本高校などが挙げられます。
吉丸は大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)で生まれ、熊本の第五高等学校から1898(明治31)年に東京帝国大学国文科に進学しました。彼は下宿先で私塾「修養塾」を開き、その後も生涯にわたって地方からの苦学生と生活を共にし、衣食住から勉学、就職まで世話をしたことでも知られています。
吉丸は1902(明治35)年に大学を卒業した後、東京府立第三中学校(現・東京都立両国高校中学校)に教師として赴任し、一方では私財を投じて下谷中等夜学校を創立しました。そして1908(明治41)年には東京音楽学校の国語と作歌の教授に任命されました。文部省の唱歌編纂委員会では作詞委員会の委員長になり、以降作詞家として本格的に仕事に取り組みました。
吉丸の代表作には、「早春賦」(作曲・中田 章)、「故郷を離るる歌」(ドイツ民謡)、「木の葉」(作曲・梁田 貞)、「蛍狩り」(作曲・中田 章)などがあります。また、校歌では東京都立両国高校、長野県大町高校、静岡県立静岡高校などがあります。
参考文献:「華陽・第五拾參號」
「岡野貞一伝記 岡野貞一とその名曲」鈴木恵一編著(自費出版、2005年)
岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内