古往今来

2023(令和5)年8月

第11話 ■岐中野球部の草創期と戦後の隆盛

 

創立80周年記念誌『岐高八十年』には、「クラブの歩み」として陸上・庭球・音樂・柔道・野球の各部と應援団について、明治・大正期から昭和の終戦直後までの歴史と戦績などがまとめられています。
 「クラブの歩み」の野球部の項は、「岐高野球部私史」を松原又一氏、「終戦後-昭和二十三年夏まで」を河田四郎氏、そして「學區制以後」を溝口勝信氏が執筆しています。このうち「岐高野球部私史」は〈揺籃時代〉から始まっており、次のように書き出されています。

――明治十七年岐阜中学に入学せられた元岐中校長野村浩一先生の御話によれば、当時図画の平瀬作五郎がベースボールに精通して生徒を指導し、武田守之助校長も共に練習をせられたとの事である。蓋しこれが岐高野球の創始であろう。
 此の頃は、名称も単にベースと云い、野球と云い出したのは明治二十年代に入つてからで、(一高の選手中馬庚氏が云い出した由)ルールも今とは大いに違い、都合のよい時までは打たないで走者に塁をとらせ素面素手、捕手がワンバウンドで球をとりそのボールも規則にあてはめて、靴屋に造らせたり、修繕させたりしたものである。又レギュラーは一定して居ないで、(中略)平瀬先生の次にはアメリカ帰りの英語の辻と云う先生が新知識を伝えられたようである。

 これが岐中・岐高野球部の草創期でした。のどかな時代で、ルールは今とはかなり異なるものでした。例えば、打者はバットを振らなければストライクにならないので、意地悪い打者がいつまでも打たなければ投手は何十球でも投げさせられ、試合時間は現在の二倍、三倍になることもありました。その一方で、死球(デッドボール)の制度が無かったので、故意に死球を与えて相手チームを脅えさせる投法も往々にして使われたとのことです。岐中野球部の活動は明治30年代に入ると揺籃期を脱して本格化したようです。

   明治を代表する歌人・俳人の正岡子規(1867~1902)は、
  九つの人九つの場をしめて ベースボールの始まらんとす
  今やかの三つのベースに人満ちて そぞろに胸の打ち騒ぐかな
などと詠んで、野球好きだったことでも知られています。正岡は一高に入学するとすぐに野球を始めて捕手(キャッチャー)を務めましたが、病を得て喀血し、医師から止められるまで続けました。卒業後、郷里の松山に戻る際にはバットとボールを携え、母校の松山中学校(現・愛媛県立松山東高校)の生徒たちに野球を教えたとされます。
 彼は、自著『松蘿玉液』に、「ベースボールに要するもの」、「ベースボール競技場」、「ベースボールの勝負」、「ベースボールの球」、「ベースボールの防禦」、「ベースボールの攻者」、「ベースボールの特色」と、多くの紙面を使って野球を説明し紹介しています。打者(バッター)、走者(ランナー)、四球(フォアボール)、飛球(フライ)などの訳語が使われていますが、野球は「ベースボール」と記され、「ベースボール未だ曾て譯語あらず、今こゝに掲げたる譯語は吾の創意に係る」と書いています。
 「ベースボール」を「野球」と訳したのは、『岐高八十年』の「岐高野球部私史」の文中にある中馬 庚(ちゅうまん・かのえ、1870~1932)です。中馬は、1888(明治21)年に一高に入学し、二塁手として活躍した後、帝大に進学して、コーチや監督として学生野球の草創期を確立した人です。中馬は、『一高ベースボール部史』の編纂でball in the fieldを「野球」と訳し、本のタイトルを『一高野球部史』と改めて1895(明治28)年に発行しました。これが「野球」という訳語の嚆矢とされます。

 時を経て、戦時中は中断していた大会(朝日新聞社・主催)が1946(昭和21)年の夏に阪神甲子園球場で復活しました。それを契機に県内はもとより全国の野球部が競って活動を再開しました。こうした時期に学区制が施行されました。「學區制以後」の項には、次のようなことが記されています。

――昭和二十四年三月、学区制が施行された。勿論住みなれた学舎を、夫々の学区の高校に去って行く幾多の生徒は悲しかつたであろう。然し昭和二十三年八月、梅田主将を除くの外は一・二年でチームを固め、堂々甲子園の準決勝に駒を進め、小倉高に惜敗した我々としては、今年こそは晴れの全国制覇をと、伊吹颪の冬の校庭に来るべき春に備えて黙々とトレーニングを続け、そのチームワークは如何なる苦難にも砕けざる強固なものとなっていたが故に、その学区制の別離は何者にもまして悲しかつた。(中略)あはや、岐高野球部の終焉を思わせた時光輝ある伝統は野球部員を叱咤した。泣いていては伝統にすまぬと、我々は蹶起した。

 そして迎えた1949(昭和24)年の夏、第31回全国髙等学校野球選手権大会で、岐阜高校は神奈川県代表の湘南高校に3-5で「軍門に降った」のです。『岐高八十年』には「岐高野球部最高の栄誉」と記されていますが、願わくはその上の栄誉を歴史に刻もうではありませんか。

昭和24年度全国髙等学校野球選手権大会・准優勝盾
創立130周年記念野球大会のポスター

左の写真は同大会の准優勝盾です。このときの戦績は次のようでした。
 8月16日〔二回戦〕  岐阜 9-1 帯広(北海道)
 8月17日〔準々決勝〕 岐阜 8-4 柳井(山口県)《延長10回》
 8月18日〔準決勝〕  岐阜 3-2 倉敷工(岡山県)《4回無死降雨ノーゲーム》
 8月19日〔同再試合〕 岐阜 5-2 倉敷工(岡山県)
 8月20日〔決勝〕   岐阜 3-5 湘南(神奈川県)

チーム
湘 南
岐 阜

 2003(平成15)年には、創立130周年の記念事業として神奈川県立湘南高校との親善野球大会が行われました。

参考文献
「岐高八十年」(園部義邦編、1953年)
「春陽堂文庫32 松蘿玉液」正岡子規著(春陽堂、1925年)(国立国会図書館デジタルコレクション)


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