古往今来

2024(令和6)年2月

第17話 ■理科棟と「雄心の池」

 

 旧校舎の理科棟は、第二次大戦後に理科教育が推進され生徒数が急増した昭和30年代に建てられました。理科棟は二階建てで、1956(昭和31)年に生物教室、1959(昭和34)年に物理教室と化学教室ができた後、1962(昭和37)年には三階建ての北舎と連結されました。北舎には普通教室と家庭科教室がありました。
 1995(平成7)年1月に起きた阪神・淡路大震災の後、全国的に建物の耐震診断と補強工事などが行われました。岐阜高校の旧校舎では、本館には建物全体に耐震補強が必要とされましたが、理科棟には不要とのことでした。理科棟は低層(二階建て)で柱や壁が頑丈、というのがその理由でしたが、強い雨が降ると時折雨漏りが起きました。
 次は旧校舎時代の中庭の写真です。右方に自転車置場と本館、左方に理科棟、中央奥に旧体育館が見えます。日影になっていますが、理科棟に沿って池や花壇があった様子も分かります。

旧校舎時代の中庭(撮影時期、撮影者は不詳)

 雄心の池は、1969(昭和44)年に理科棟の中庭側に築かれ、周囲の木々と共に、生徒・職員にとって憩いの場でもありました。池では生物・園芸部(現・自然科学部生物班)によって淡水産魚類や二枚貝が飼育され、研究の場にもなりました。
 雄心の池で行われた生物班の研究について、和田雅紀教諭(平成13~30年度に勤務、現在は大垣北高校)にうかがいました。当時は、発芽のメカニズムがよく解っていなかったオニバスの発芽実験、継続的な飼育が困難であるドブガイやイシガイなどの淡水二枚貝の飼育・観察、淡水二枚貝に産卵する稀少なタナゴ類の魚類の飼育などが、池を利用して行われました。
 これらの活動から発展した研究として、岐阜市内に生息する絶滅危惧種の魚類シロヒレタビラの遺伝子を部員が解析したところ、ほとんどの個体が濃尾平野系統の遺伝子をもたず、近畿山陽系統の遺伝子をもったものであることが判りました。一部のマニアがもたらした遺伝子汚染が広がっていることを岐高生が突き止めたことが当時話題になりました。
 池の水の水質はとても良く、雄心の池が無くなる前に池の中を調べてみると、何年も前に放した淡水二枚貝やタナゴ類が元気に生きていました。
 理科棟と雄心の池は、校舎改築に伴って2009(平成21)年5月から共に解体され、理科諸室は現在の特別教室棟2Fに移りました。写真の石碑は、校舎改築後に校地東端の植栽内に置かれました。雄心の池があった場所には、現在、教室棟が建っています。

石柱「雄心の池」(令和2年5月・撮影)

シリーズ《明治の群像》の掲載予告

 学校創立の明治6年から幾星霜を経て今年は令和6年。その間に刻まれた岐阜高校の歴史と伝統は、地域に支えられながら、学び舎に集った生徒と教師によって築かれてきました。
 岐中・岐高女・岐高の歴史を訪ねる「古往今来」では、今年、シリーズ《明治の群像》と題して明治年間の卒業生と明治期に在職した教員を取り上げてご紹介します。

岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内