古往今来

2024(令和6)年6月

第21話 ■剣術の達人、前島吉徳《明治の群像・1》

 

 前島吉徳(1842~1911)は維新廃藩後に岐阜中学校に剣道師範として迎えられた人です。前島は、古武術で免許を得、後進の指導に携わっている武術家を収めた『日本武術名家伝』に名前がある人で、杉江正敏らの研究報告では、「小野派一刀流前島吉徳の岐阜倭館などの道場における伝播活動が特徴的である」としています。

 1891(明治24)年10月28日の午前6時半過ぎに起きた濃尾地震(マグニチュード8.0)で、旧岐阜町の大部分が焼失しました。『岐高百年史』によれば、負傷者はいませんでしたが、「校舎五棟が倒壊、運動場は所々亀裂凸凹、数ケ所噴水、細砂ヲ吐出」(135ページ)とあり、講堂・食堂・教室・生徒控所が倒壊して中学校は4週間の休業となりました。
 その後、日清戦争が始まる世相の中でも校内の震災復旧工事は徐々に進み、1898(明治31)年度には雨天体操場と教室一棟ができました。雨天体操場の完成を受けて撃剣(剣術)と柔術を中学校の準正科とすべし、との世論が高まり、前島吉徳らが撃剣の指導者として任命されました。
 撃剣は剣術の稽古方法の一つで、竹刀や防具を使い、打ち・突き・組み・投げなどが駆使されました。前島は、1903(明治36)年2月11日の紀元節(四大節の一つ、現・建国記念の日)に行われた第二回撃剣寒稽古納会の大会で、来賓と生徒の前で一刀流の型を披露しています。『岐高百年史』の1911(明治44)年の項(264ページ)には、「剣道は三九年に門衛の前島吉徳を教師とし(中略)「剣道集団指導法」を編み生徒を教えた」とあります。  前島は中学校の門衛をしながら撃剣を教えました。しかし、その後間もなく亡くなり、岐阜公園の中に「前島吉徳翁碑」が建てられました。現在、同碑は、園内の「警友慰霊碑」に向かう入り口から山に入り、「警友慰霊碑」を経て山道を北に少し行った林の中にひっそりと立っています。

前島吉徳翁碑(令和6年4月・撮影)

 雑誌『華陽 第五拾参號』の〈詞藻〉の項には「前島吉徳翁碑銘」(青木晦藏稿)として碑文(漢文)の全文が記されています。以下には『岐高百年史』(274ページ)にある意訳文をご紹介します。

 前島吉徳は信州松代藩の人、真田(幸村の子孫)候に仕え、佐久間象山に剣法を受ける。維新・会津役に藩士を率いて、越後、小千谷、雪嶺に賊を破る。廃藩後、岐阜中学校の剣道師範にむかえ、大日本武徳会岐阜支部の名誉教師とする。翁は常に剣の道は鍛心錬胆、もって尽忠報国に存すという。二十年一日のごとし。在職中に歿、年六十九、四十四年二月二一日。翁は古武士の風あり、晩節不遇、志を得ずして逝く。門人あい謀り石を岐阜武徳殿前に立て、その徳を不朽ならしめんと。  明治四十五年二月二十一日

 碑の背面には発起人のほかに、賛成者として「岐阜中学 職員一同 卒業生有志 在校生一同 岐阜市立商業 卒業生有志 在校生有志」と記されています。『岐高百年史』には、「この碑の建設は中学教師として破格のことであり、現存する唯一の記念碑として忘れてはならないものだ。特にここに記録しておきたい」と記されています。

参考文献
「華陽 第五拾参號」岐阜縣立岐阜中學校華陽會編(1912年)
杉江正敏・中野八十二・渡辺一郎、明治期における東海地方の剣道伝播形態に関する一考察、武道学研究、4-1(1968年)
杉江正敏、近代武道の成立に関する研究 -『日本武術名家伝』の分析的考察 その1-、武道学研究、8-2(1968年)
「岐高百年史」清 信重著(1973年)


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