古往今来

2023(令和5)年5月

第8話 ■友學館(林間学舎)・2

 岐阜高校の林間学舎は、1968(昭和43)年夏、海抜1060メートルの上宝村中尾(現・高山市奥飛騨温泉郷中尾)の地に開設された宿泊棟・食堂棟を有する施設です。生徒も職員も「山の家」や単に「学舎」と呼び習わしていましたが、2006(平成18)年に愛称を付けることになり、在校生徒に募集した結果、「友學館」が選ばれました。その創設の経緯は、初期の林間学舎の栞に「建設の趣旨」として記されています。

 岐阜高校は従来校外活動の場として独立の諸施設を有せす、ほとんど一般民間の営業施設に依存してきたのであるが、一般外部の施設では環境、期間、経費等の面からも制約が多く、かつ本校生徒の団体訓練の場として必ずしも妥当でないので、校外施設設置の要求が強くなってきた。本校生徒と教師が都塵を離れた広大な自然の中で起居を共にするということは、健全な心身を養い、円満な情操を培う人間形成の面からも欠くことのできないものと信ずる。しかしながら、前記目的を達成するために現在のPTA、後援会のような任意団体による諸設備、維持、管理を以てしたのでは、その活動に円滑を欠くばかりでなく、将来の発展、任務達成の上からも種々支障あることが考えられるので、これらの欠陥を補い、かつその運営を効果的にするために、独立した「財団法人岐高会」を設立し、林間学舎建設の運びとなったのである。

 2008(平成20)年の同窓会会報に、渥美茂四郎先生の寄稿が掲載されています。渥美先生は1966(昭和41)年から1975(昭和50)年に在職されました。

 赴任して校務分掌が林間学舎の係になりました。といっても、学舎を造る仕事です。初めて上宝村の中尾に行き、雄大な北アルプスの嶺嶺を目前にした時の感動は今なおありありと浮かびます。学舎の建設予定地に立ったときには、同窓生諸氏の母校愛をひしひしと感じました。
 その後、地鎮祭から峻工まで、いろいろと勉強させていただきましたが、特に思い起こすのは、いよいよ栞の作成の段階で日程の検討や登山のコースなどについて何かと苦労したことです。とりわけ登山については、どの山にするかを決めるために近くの山をいくつも登り、最終的に焼岳に決定しました。
 焼岳は危険箇所が多く、何度も点検に歩きましたし、地元の人々の協力を得て樹林を伐採し歩道を確保しました。そして最初の栞が完成したのです。その時一緒に登り、ご指導いただいた主任の先生は、二年前に惜しくも他界されました。先生との最後のお別れの時、懐旧の涙で大泣きしました。
 一年生の担任として林間学舎の登山で独標に登り、クラス全員で写した笑顔の写真があります。これは私の大事な一枚です。思い出は尽きません。全て、若き良き時代の思い出として、まぶしく輝いています。

 

1965(昭和40)年、焼岳(岐阜・長野県境、標高2455㍍)の北西麓で温泉の掘削に成功していた中尾に用地が取得され、建設工事は1967(昭和42)年8月12日に始まって翌年7月13日に落成しました。左の写真は1976(昭和51)年の栞の表紙です。

 当時、全国の高校では、校外活動の拠点として、いわゆる〝山の家〟や〝海の家〟を独自に保有する動きが盛んでした。しかしその後、維持管理が設備的・経済的に難しくなったり、活動内容が合宿学習一辺倒になって退潮傾向になったりして、廃止された所も多いようです。そうした中、本校のように、現在もなお当初からの方針が受け継がれて活動が続けられている例は少なくなりました。

友學館でリニューアル工事が進んでいます

 創立150周年記念事業の一つ「林間学舎リニューアル」として、友學館の改修工事が行われます。
 里の桜が散り果て、薫風新緑の季節に移りゆく4月半ば過ぎ、現地を訪れました。高山の市街地から標高が上がると、満開の水仙と桜が迎えてくれました。周囲の山塊には残雪があり、山の緑は萌え出づる前でした。
 今年の夏からは、再びここに元気な生徒の声が戻ってくることでしょう。

食堂の内装工事の様子(撮影・令和5年4月)

参考文献:林間学舎の栞(1976年)


岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内