古往今来

2024(令和6)年11月

 

 平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう、1866~1945)は、教育界では甲南学園の創立者として、政界では広田弘毅内閣(1936.3/9~1937.2/2)の文部大臣(潮恵之輔(うしお・しげのすけ、内務大臣兼任)の後任、1936.3/25就任)などとして知られています。
 平生は、加納藩の藩士、田中時言の三男として加納に生まれ、藩校の憲章校(1879(明治12)年に加納小学校と改称)を優等で卒業して1879年に岐阜県第一中学校に入学しました。
 第22話「岐阜中学校の図画教員、平瀬作五郎《明治の群像・2》」で引用した岐阜日日新聞の連載『岐高百年史』第28回(1972(昭和47)年9月29日)には、中学校時代の次のような〝武勇伝〟が平生の伝記からの引用として記されています。
――「県の警察部で、はじめて洋式の手押しポンプが購入され、運動場で放水訓練を行なった。この舶来新式ポンプは生徒にとっても驚異すべき道具であった。巡査らが昼食で休憩したとき、平生らの生徒が、このポンプにとりついて、早速、放水に興じていたら力が余って、ピストンをこわしてしまった。留守を守った巡査らは、そのポンプ破壊の責任を生徒に求め、生徒たちは青くなったが、平生は、生徒のポンプ操作中、そのホースの先端を持っていたのは巡査であっていわば「共同責任」である。むしろ大切な官品の保全、監督を怠ったのは巡査たちの責任だ、と大いに抗弁し、ことなきをえた、としるしている。」

  その後の平生の学生時代です。平生は上京し、1881(明治14)年に東京外国語学校(現・東京外国語大学)の給費生に応募して合格し、露語科に入学しました。
 ところが東京外国語学校は、彼があと1年で卒業という四年生だった1886(明治19)年に東京商業学校(現・一橋大学)に合併されて同校の語学部となり、後に閉鎖されて旧・東京外国語学校の露語科の学生は除籍になってしまいました。このとき平生はやむなく東京商業学校の正規課程に編入学し、同年には旧・岸和田藩士、平生忠辰の養子となりました。東京商業学校時代の同級生には、中退して小説家となった二葉亭四迷(本名:長谷川辰之助、1864~1909)がいて、二人は首席を争いました。次いで1890(明治23)年に高等商業学校(1887(明治20)年に東京商業学校から改組)を首席で卒業し、同校付属主計学校の助教諭となりました。苦労の多い学生時代でした。
 平生は、推薦されて韓国の仁川(インチョン、現・仁川広域市)の税関に赴任し、帰国後の1893(明治26)年には兵庫県立神戸商業学校(現・兵庫県立神戸商業高校)の校長となりました。1894(明治27)年には東京海上保険㈱に筆頭書記として入社し、以後も財界や教育界で活躍しました。

 校史資料室には平生に関係する次の諸書を所蔵しています。
「平生釟三郎追憶記」津島純平編(財團法人拾芳會、1950年)
「平生釟三郎講演集 -教育・社会・経済-」甲南学園編(有斐閣、1987年)
「平生釟三郎日記 第13巻」甲南学園平生釟三郎日記編集委員会編(甲南学園、2016年)
「同 第15巻」、「同 第16巻」同委員会編(甲南学園、2017年)
「同 第18巻」同委員会編(甲南学園、2018年)

  『平生釟三郎講演集 -教育・社会・経済-』の冒頭には、岐阜中学校の創立50周年に平生が行った講演が記され、平生の教育論がうかがえます。
  『平生釟三郎追憶記』には編者によるまえがきとして、「平生先生の傳は、先生の永年にわたる日記を重要資料にして、目下制作中であるが、これは世に出すになお日子を要する」とあります。平生は1913(大正2)年10月7日から1945(昭和20)年10月24日の間の日記を残しており、これを収録した『平生釟三郎日記』(全18巻)は甲南学園によって編まれました。その説明によれば、日記は187冊で、前半の85冊は和綴罫紙帳に概ね毛筆で縦書き、残る102冊は英国製ノートブックにペンで左横書きで書かれています。本文は大部分が片仮名交じり文で、次に多いのは英語を主とする欧文(英語以外の原語はフランス語、ドイツ語、ロシア語)であり、一部は平仮名交じり文で書かれています。

参考文献
「平生釟三郎追憶記」津島純平編(財團法人拾芳會、1950年)
「岐高百年史」清 信重著、上野たかし画(岐阜日日新聞、1972年)
学校法人・甲南学園のホームページ「甲南学園創立者 平生釟三郎の生涯」
「平生釟三郎日記 第18巻」甲南学園平生釟三郎日記編集委員会編(甲南学園、2018年)(同書の題字について甲南学園・総務課に尋ねたところ、平生釟三郎本人が書いた文字から抜き出して配置したもの、とのことでした)


岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内