
2025(令和7)年11月
太平洋戦争の終末期、岐阜の市街地は1945(昭和20)年7月9日から翌日にかけて空襲を受けました。このとき校舎の多くの部分は焼失しました。
学び舎の復旧は、1947(昭和22)年の第一期工事から始められました。1949(昭和24)年には第二期工事が終わり、1950(昭和25)年に終わった第三期工事で普通教室がようやく充足しました。その状況を、第四期復旧工事(1952(昭和27)年完成)が計画されている段階で同窓会の『會報 第四號』に掲載された記事からご紹介します。
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――復興增築狀況 昭和廿一、二年尊き御寄付によつて復舊した岐中本館と體育館、それに縣費で六敎室これが第一期、第二期には十敎室と岐高女記念館の移築、こゝで私達母校關係者は再び卒業生各位のお示し下さつた御好意に心からなる感謝の辭を述べ度いのである。岐中同窓會員各位によつて復舊された本館コンクリート建は、岐阜高校運營の核心として、岐高女卒業生皆樣のお建て下さつた記念館は、同窓会の中樞として何時迄も何時までもその歴史的意義を失わぬことだろう。
次第三期は六敎室增築第四期はプール、更に今廿六年度は第五期として鐡筋コンクリート建の生物敎室、音樂敎室、普通敎室の復興が計畫されて居る。之等の復興には本校事務官高木友久氏(明44)の功績が高く評價されねばならぬ。
以上母校の現況を御報告申したのであるが、かく新生のスタートを切つた事は、校長以下校内職員の盡力もさる事乍ら、母校愛の熱意に燃える校外の同窓会員に負う所大なりと信じ感謝の意を表し度いと思う。

上記の文に続けて「最後に本校卒業生の職員各位の抱負を披瀝して母校を愛せらるる皆樣方の赤心にお應えし度いと思う。」とあり、教員として勤務する卒業生13人が校舎復旧の喜びや戦後教育への期待などを語っています。
「母校平面圖」には「生物敎室予定地」、「音樂敎室予定地」とあり、第四期復旧工事を終えて第五期復旧工事を待つ状況であることと共に、このときの建物の配置から原状(空襲による焼失以前)が分かります。現況と較べると、テニスコート(庭球コート)が狭く、バレーボールコート(排球コート)は校地の西端にあって、現在テニスコートが広がる場所にはまだ教室棟があります。
本館に目を移すと、本館は2階建て(図面では階下と階上が並べて描かれています)で、記念館、体育館とつながっています。旧本館(現校舎が改築される前の本館)は4階建てでしたが、「母校平面圖」にある2階建て本館に教室が積み増されてできたことも分かります。
参考文献
「會報 第四號 附會員異動報告」岐阜縣立岐阜高等學校同窓會編(1951年)
岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内
