古往今来

2022(令和4)年11月

第2話 ■ガリレオの胸像と二度の除幕式

 ガリレオの胸像は、旧制・岐中の1932(昭和7)年卒業生で組織された「昭七会」から寄贈されました。1959(昭和34)年7月13日付け岐阜タイムス(現・岐阜新聞)には、「校庭にガリレオの胸像岐阜高・同窓生が贈る」という記事が掲載されています。
 この胸像には前身がありました。『岐高百年史』から関連する記述を拾います。

-1940(昭和15)年4月28日
 中学校で広部広大佐、胸像除幕式。広部は昭和6年の配属将校で、漢口攻略戦(昭和13年10月)に戦死した。
-1959(昭和34)年7月12日
 校門前のガリレオ像除幕式。台座は広部広の胸像を転用したもの。まさに歴史の転変を物語っている。
 配属将校とは、1925(大正14)に公布された陸軍現役将校学校配属令に基づいて、官立及び公立の中等教育以上の学校に男子生徒・学生の教練を指導する目的で配属された現役の将校のことです。広部大佐を偲んで胸像が建てられた1940年は,紀元2600年の奉祝を終えると,国民統制組織として大政翼賛会が結成され、社会は戦争に向かいました。その胸像は戦時下の金属回収で供出されて無くなり、校舎は1945(昭和20)年7月の岐阜空襲で焼失しました。
 胸像の銘板(台座正面)には「道常無為無不為 九十翁武藤嘉門」とあります。「道常無為無不為」は武藤嘉門(明治23年卒,1870~1963)による句(大意:道は常に無為であって人間の働きのような人目につく仕事はしないが、あらゆることを成し遂げている)です。(写真は2007(平成19)年2月に撮影)
 小島信夫(昭和7年卒,1915~2006)の小説『釣堀池』の〈ガリレオの胸像〉には、この胸像をモチーフにしたと思われる場面が描かれています。小島は岐阜市加納に生まれました。中国東北部への従軍を経て教員、次いで作家になり、1955(昭和30)年に小説『アメリカンスクール』(初出・「文學界」1954年9月号)で第32回芥川龍之介賞を受賞しました。なお,『釣堀池』には,〈ガリレオの胸像〉のほかに、〈人探し〉、〈仮病〉、〈季節の恋〉、〈歩きながらの話〉、〈泣く話〉、〈船の上〉、〈釣堀池〉、〈雨を降らせる〉が収められています。
 『釣堀池』の〈ガリレオの胸像〉の第一部は「その田舎都市の中学校」での大友庄一郎と、二歳年上でマラソン選手の島中との中学校時代の回想を下敷きにして心理描写が展開されます。陸軍の広井大尉、国語教師の城山校長、大友の担任で物理教師の笹野先生も登場します。
 第二部は、東京で彫刻家になった大友の家を、歯科医になり母校のPTA会長になった島中が訪れるところから始まります。島中は上京の折りに、ガリレオの胸像の制作を大友に依頼します。大友は承諾し、二人は城山校長宅を訪ねて、軍人広井の像が無くなった台座にガリレオの胸像を据えることについて許可を求めるのです。

参考文献:「岐高百年史」清信重著、「釣堀池」小島信夫著(作品社,1980年)


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