
2026(令和8)年1月
岐中・岐高女・岐高の歴史を紹介する同窓会のブログ「古往今来」では,今月からシリーズ《歴史の界隈》の連載を始めます。このシリーズでは,学校の歴史に因む場所を取り上げて過去と現在をご紹介します。
中学校の校舎が新築されたのは1874(明治7)年のことでした。この年の4月に「官立中学校開業伺書」が文部省に提出され,翌月に認可されました。新校舎が築かれた場所について『岐高百年史』には,「岐阜市米屋町の旧奉行所の奥庭を使って,末広町と新たに開通した用水堀のあいだで,さらに奉行所跡を二分して東西に新しく開通した町筋の南の一画をあてた」(44㌻,一部修正)と記されています。

1874(明治7)年12月5日付けの「地所名称之儀願」は,岐阜町の戸長らから奉行所跡地に末広町を新設する願い出です。これは明治維新後に同跡地に善光寺大門から加和屋町(かわやちょう,現・岐阜市本町及び梶川町)への道路が開かれたことによります。願書を受けて県は内務省に伺いを提出し,翌年1月に内務省から認可されました。末広町には間もなく劇場「末広座」が設けられました。❶
写真は現在の末広町の町名標示板です。伊奈波通を伊奈波神社に向かって左に入ると町域ですが、付近には昔の面影はありません。

中学校の名称については次のように記されています。「願書では「遷喬館」❷としているが,実際に用いられたかどうかはわからない。文部省が学制を示したときは,南校を第一大学区第一番中学と改称した。この例にしたがえば,この中学は「第二大学区第二十番中学」となるはずだ。全国的な編成からすればそうなるはずだが小学校をふくめて,こうした例はない。文部省も「公私学校の名称は自今,地名人名等その便宜にまかす」(明治六年四月)の達示をだしていた。」(45㌻)
さらに,中学校の開設をいつにするかについては,「むつかしい問題で前年の「仮中学」創設をとるか,この「官立中学」許可をとるか,あるいは「九月七日開校,片山遠平を校長とし,飯野忠一を監事」(岐阜県教育五十年史)によるか」(45㌻)として,三つの可能性を示しています。
「古往今来」の筆者による註記
❶伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)の界隈は江戸時代から繁華で,例えば延宝期には人形浄瑠璃,享保期には辻能(路傍に囲いを設けて興行する能楽)や歌舞伎が行われた記録があります。明治期には新たな娯楽も入ってきて,芝居や見世物が集まる地でした。末広座,国豊座,相生座(あるいは花角座)ができ,〝伊奈波三座〟と呼ばれましたが,1891(明治24)年の濃尾地震などの影響で娯楽の中心地は柳ケ瀬に移りました。
❷「遷喬」の語は詩経にあり,ウグイス(鴬)が谷間を出て喬木(高い樹木)にうつることから,高い地位に昇進することの喩え。
参考文献
「岐高百年史」清 信重著(1973年)
近世前期の岐阜町に関する一考察,森田晃一,岐阜女子大学紀要,30,107~116(2001)
岐阜の伊奈波の芝居小屋-末広座と国豊座,土谷桃子,岐阜大学留学生センター紀要,21~35(2014)
「22.末広町新設につき願」岐阜県のホームページ(https://www.pref.gifu.lg.jp)
岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内
