古往今来

2026(令和8)年4月

 本願寺岐阜別院(岐阜市西野町)の本門(岐阜県重要文化財)の前に「明治天皇岐阜行在所」と刻した石碑があります。これは1878(明治11)年10月の行幸の際に本願寺岐阜別院が行在所(宿所)になったことを記念するものです。

「明治天皇岐阜行在所」の石碑(本願寺岐阜別院、令和7年8月・撮影)

 明治天皇は、1878年10月23日、上加納村から岐阜町に入り、靱屋(うつぼや)町から本町を経て稲束村(忠節)から本願寺岐阜別院の行在所に入られました。翌日は岐阜県公立病院❶と県庁(当時は共に司町にありました)を訪問され、次いで師範学校や中学校で授業を参観されました。このときの両校は、美江寺観音(美江寺町)とその西に南北に流れる用水路(現在は暗渠)の間の敷地にありました。
 大正天皇も、東宮(皇太子)であった1898(明治31)11月と1909(明治42)年9月に岐阜県に行啓され、本願寺岐阜別院に宿泊されました。1909年9月17日の行啓の際には、岐阜中学校の生理、図画、兵式体操の授業を参観され、中学校では行啓を受けて校旗(初代)が制定調製されました。

 校史資料室には昭和天皇が写る写真パネルがあります。戦後、昭和天皇は、1946(昭和21)年2月から1954(昭和29)年8月にかけて全国各地に行幸され、この写真は、1946年10月25日に岐阜一中を訪問されたときのものです(写真は複写のようでもあり、出典などの詳細は不明)
 『岐高百年史』には、行幸に備えて「一週間にわたって大掃除。土足の教室をタワシで磨きたてた。当日の廊下は「土によごれた兵隊ズボンにカビがはえて天日に乾してあるような、奇妙な色観を呈していた」」(507㌻)、「凸凹の土間に机を並べ、ベニア板で仕切って、いくつかの教室となっていた講堂を通って御帰還」(508㌻)と記されています。
 写真は陛下が化学の実験を参観される様子です。その教室の壁はベニア板のようで、縦横に打ち付けられた補強の角材がむき出しです❷。写真中央の木製机には試験管や薬品瓶、開いたノートなどが置かれています。左には4人の生徒、頭は全員丸刈りで、服装は3人が詰め襟、1人は国民服のような物を着ています。1人が持つ試験管に別の生徒が薬匙で薬品を入れており、手前の生徒はノートを取っています。奥からそれをのぞき込んでいる生徒の胸には、桜に「中」の校章が見えます。

「古往今来」の筆者による註記
❶岐阜大学医学部附属病院(現・岐阜市柳戸)は、1875(明治8)年に「岐阜県公立病院」として設置され、本願寺岐阜別院の敷地を借りて開院しました。その翌年に司町(現在の岐阜市役所、ぎふメディアコスモスの場所)に移転し、名称はその後次のように変遷しました。
  1882(明治15)年 岐阜県医学校附属病院
  1886(明治19)年 岐阜県病院
  1944(昭和19)年 岐阜県立女子医学専門学校附属病院
  1949(昭和24)年 岐阜県医工科大学岐阜県立女子医学専門学校附属病院
  1950(昭和25)年 岐阜県立大学医学部附属病院
  1954(昭和29)年 岐阜県立医科大学医学部附属病院
  1967(昭和42)年 岐阜大学医学部附属病院(2004(平成16)年に現在地に移転)
❷1946年4月、岐中の入学式はかつての銃器庫を転用した教室で行われました。この頃には市内の復興は順調に進み、10月には柳ケ瀬で復興祭が催され、中学校でも運動会が復活しました。

参考文献
「岐高百年史」清 信重著(1973年)
岐阜大学医学部附属病院のHP(https://www.hosp.gifu-u.ac.jp)


岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内