古往今来

2023(令和5)年11月

第14話 ■150年前の日本―鉄道開業の頃

 

 岐阜高校が創立された今から150年前の日本は、鉄道事業が開業して日本国内に鉄道網が本格的に整備され始めていました。今回はその頃の鉄道事情についてご紹介します。

蒸気機関車は1825年にイギリスで初めて実用化され、約30年を経て幕末の日本に模型が伝来しました。1853(嘉永6)年、ロシアのE.プチャーチンが軍艦を率いて長崎に入港し、江戸幕府と開国交渉を行った際、約半年間の滞在期間中に幾人かの日本人が艦上に招待されて模型蒸気車の運転が披露されました。
 次いで1854(安政元)年、アメリカのM.ペリーは、二度目の日本訪問の際に大統領からの献上品として横浜に蒸気車の模型を持ち込み、機関士によって運転されました。1855(安政2)年には、佐賀藩精煉方の田中久重(からくり儀右衛門)が蒸気機関車の模型を完成させました。1865(慶応元)年には、長崎で中国向けに輸出される予定であった蒸気機関車が英国人たちにより試験的に運転され、1869(明治2)年には、北海道・茅沼炭鉱で牛馬を使用した炭鉱軌道が運行を始めました。
 1872(明治5)年6月12日、日本初の営業用鉄道が品川駅-横浜駅(現・桜木町駅)間で仮営業が始まりました。これに先立って4月に鉄道略則、6月には鉄道犯罪罰例・改正鉄道略則と、鉄道事業に関する規則類が急ピッチで整備されていきました。
 当初、開業は10月11日(旧暦で重陽の節句、9月9日)に予定されていましたが、荒天で延期されました。そして迎えた10月14日、新橋駅(後の汐留駅)-横浜駅間が正式に開業し、その翌日から旅客営業が始められました。開業の日には新橋駅で式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜駅まで往復運転されました。
 線路の軌間には、標準軌 (1435㎜) ではなく狭軌(1067㎜)が採用されました。軌間が広いほど大きく重い列車をより速く走らせることができます。しかし、建設費が嵩むことに加えて、軌間が大きいと曲線半径を大きくする必要があり、山岳地の多い日本では難しかったことから狭軌が選ばれたとされます。
 機関車は全てイギリスから輸入されました。客車も上等車(定員18人)10両、中等車(定員26人)40両などがイギリスから輸入され、中等車のうち26両は開業前に下等車(定員52人)に改造されました。当時の客車は、駆動系統と車台は鋼製、柱・壁・屋根などは木製でした。機関士も運行ダイヤの作成者も外国人で、彼らは〝お雇い外国人〟と呼ばれる技術者たちでした。
 開業翌年の1873年には、1日平均の乗客4300人余、年間旅客収入42万円と年間貨物収入2万円から経費23万円を差し引くと21万円の利益でした。運賃収入の大半は旅客収入で、貨物運送については準備不足に加えて近代的な諸産業は未だ発展途上の時期で運ぶべき荷物が少ない状況でした。しかし鉄道は儲かるとの認識が広まり、人々の鉄道人気は大いに高まりました。

 東京と京都を結ぶ鉄道幹線は、当初は中山道に建設される予定でした。東海道は江戸時代から陸上輸送の大動脈であり、船舶便も既に発達していたことから、鉄道の需要は小さいと判断されたからです。しかし、中山道幹線の建設が1883(明治16)年に始まると、隧道掘削に時間と費用が嵩むことが分かり、1886(明治19)年、内閣総理大臣伊藤博文は東海道幹線への変更を決断しました。
 1877(明治10)年に神戸駅-京都駅間が開通し、京都駅以東は大津駅、米原駅と延伸され、岐阜県内で最西端の駅となったのは関ケ原駅でした。関ケ原駅-大垣駅間の工事は1883(明治16)年に始まりました。この時期は中山道幹線で計画され、加納宿からは更に東へ延伸される予定で、名古屋から加納宿に向けて建設用資材の輸送を兼ねる支線(尾張線)が予定されていました。
 関ケ原駅-大垣駅間は1884(明治17)年に開業。加納停車場ができた翌年に駅舎が西に移されて岐阜駅と改称され、基本計画が東海道幹線に変更されると尾張線が幹線となりました。

県内の鉄路はここから東へ延伸された
(JR東海道本線関ケ原駅、令和5年9月・撮影)

 写真・右は関ケ原駅構内にある石碑です。歌唱集「鉄道唱歌」は1900(明治33)年に第一集・東海道篇(新橋から神戸までの66番、作詞・大和田建樹、作曲・多 梅稚、上 眞行ほか)が発表され、駅名と沿線の風物が織り込まれて広く親しまれました。関ケ原駅は36番として登場します。

1 汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る月を旅路の友として
2 右は高輪泉岳寺四十七士の墓どころ 雪は消えても消え残る名は千載の後までも

36 天下の旗は徳川に帰せしいくさの関ケ原 草むす屍いまもなお吹くか伊吹の山颪

65 思えば夢か時の間に五十三次走り来て 神戸の宿に身をおくも人に翼の汽車の恩
66 明なば更に乗りかえて山陽道を進まゝし 天気は明日も望あり柳にかすむ月の影


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