古往今来

2026(令和8)年5月

 岐阜町小学義校開業願書は1873(明治6)年2月に県に提出され、同月のうちに文部省から「伺之通」と許可されました。寄宿の制度は学校創立時からあり、『岐高百年史』には同願書の塾則に「寄宿望ノ生徒アラハ其請ニ任スヘキ事 但寄宿生二人扶持ノ外学校入費相当出サシムヘキ事」(29㌻)とあります。
 明治期の中学校での寄宿舎生活については田中与市(明治27年卒)による文が『岐高百年史』に収められています。寄宿生は約40人、授業と夜の自由時間を除き、昼間の外出などは袴に破帽の姿でした。宿舎料は月2円70銭で毎土曜日に10銭の小遣いが舎監から渡されました。土曜日の夜には月に2回弁論会があり、各自が自分のランプを持って食堂に集まり、党派に分かれて熱弁をふるいました。寄宿舎には新聞や雑誌が入っており、議会議事録が届くと「生徒は自らが尾崎、犬養❶になって、それを読みあげ、当局に迫る口マネをして、その拍手は室を動かすものがあった」(147㌻)とあります。
 大正期については伊藤隆吉(大正7年卒)による文があります。登校時は制服にゲートルを着け、放課後には紺絣の和服に着替えました。「寄宿舎で同室の室長(五年生)に家庭教師のように教えてもらった」(297㌻)と記されています。冬、寄宿生の三年生以下は全員3週間の寒稽古への出席が強制され、その日には四、五年生が当番制で定刻の6時に竹刀で下級生を起こして回りました。「寒稽古ですっかり上達したような錯覚を起こした。毎朝、師範用の桶風呂がたてられ、舎の部員上級生はこの風呂に入浴が許された。通学生が道場の片すみで火バチをかこんで、焼モチや冷い弁当をつかっているのに、舎生は熱い朝風呂と香り高いミソ汁がたべられた」(297㌻)とあります。

 上の図は『岐高百年史』から転載したもので、左は1914(大正3)年の「岐中・寄宿舎略図」(297㌻)、右は「岐阜縣岐阜中學校平面圖 昭和二年八月現在」(366~367㌻、一部を回転させて配置)です。
 両者を見較べると、1914年には全部で3棟(第一、第二寄宿舎は一階建て、第三寄宿舎は二階建て)ありましたが、1927(昭和2)年にはこれら3棟に代わって、洗面所・浴場・炊事場などがあった場所に1棟の寄宿舎として集約されたことが分かります。
 『岐高百年史』の1925(大正14)年の項には「三月、中学校の寄宿舎を廃す」(346㌻)とありますが、「岐阜縣岐阜中學校平面圖 昭和二年八月現在」では校地の西方に寄宿舎1棟と寄宿舎跡2棟が見られます。寄宿の制度が無くなった後も建物はしばらくは残っていたと考えられます。

寄宿舎のメダル(制作時期や用途は不明、校史資料室所蔵)

「古往今来」の筆者による註記
❶「尾崎、犬養」は尾崎行雄(号・咢堂、1858~1954)、犬養 毅(号・木堂、1855~1932)のことで、二人は大正デモクラシーの時代を代表する政治家です。尾崎は、東京市長、文相、法相を歴任し、1913(大正2)年の第一次護憲運動では先頭に立ち、〝憲政の神様〟と称されました。尾崎はまた、1912(大正元)年に桜の苗木をワシントンDCに贈呈したことでも知られています。犬養は常に少数党に与して藩閥政治の打倒を主張し、1929(昭和4)年に立憲政友党の総裁となって憲政護憲運動を先導しました。1931(昭和6)年に内閣総理大臣になりましたが、翌年5月に軍人に射殺されました(五・一五事件)。

参考文献
「岐高百年史」清 重信著(1973年)
「岐阜県教育史」岐阜県教育委員会編(岐阜県歴史資料保存協会、2006年)


岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内