古往今来

2026(令和8)年7月

 明治期の遠足は、学校から隊列を組んで目的地に徒歩で移動し、集団的な身体活動を行う活動で、「遠足」のほかに「遠足運動」、「行軍」、「擬行軍」などとも呼ばれました。活動の内容は学校により、旗奪い、球技、相撲、兎狩り、模擬戦闘など様々でした。
 『岐高百年史』の1894(明治27)年の項に遠足運動に関する記述があります。

--「一一月二四~二六日。発火演習をかねての遠足運動を行なう。二四日、六時半、校庭集合、職員一五人、生徒一四〇人、ほかにラッパ手五人。生徒の半数が銃剣で武装、他は軽装、七時校門出発。揖斐町まで行軍。ときにラッパ、ときに「征清の歌」を高唱する。村落には高い木の絶頂に「帝国万歳」の旗などがあげられている。午后一時揖斐町着。池元屋ほか四軒に分宿。夜、「旅順口占領」❶の報あり。非常点呼、武装して街頭に整列、勝報を祝して深夜の万竜山にのぼり一斉砲火。帰宿、午前二時。
 二五日、雨。八時、雨中を行軍。傘を許さず、赤坂にむかう。本日、当地方に教育大会、会場の本郷小学校で茶菓を受く。道路悪く、行歩困難。午后二時、赤坂着、分宿。
 二六日、天気良、青墓、青野附近で東西の両軍にわかれて、西軍先発、粕山八幡山に陣をしく。東軍これを攻め、一一時東軍全勝して発火演習を終わる。赤坂から大垣に至る。大垣分校❷生徒の出迎えを受け、分校で茶菓。午後二時半、分校を辞して、汽車にて岐阜停車場に着、列を整えラッパにて校門へ。両陛下の万歳、帝国万歳を連呼して解散、午後五時。
 右の記録はたしかに日清戦争下の中学校の生活を示している。」(151~152㌻)

 文中の「征清の歌」は軍歌などと考えられます。征清は、清国と戦うこと、清国を攻め討つことです。日本は1894年8月、清国に宣戦布告しました。同年の項の冒頭には、「日本が明治以来はじめての「外敵」清国と戦った年である。すでに二年ほど前から「敵は幾万ありとても」の歌❸が流行していた」(148㌻)とあります。

 文中の「揖斐町」は現在の揖斐郡揖斐川町で、勝報を受けて深夜に登った「万竜山」は、城台山(223㍍)のことと考えられます。次の写真は城台山の登山口に近い城台山公園で、金刀比羅神社も写っています。

城台山公園(令和8年5月撮影)

 槍ケ岳の開山で知られる江戸時代の僧播隆(ばんりゅう)は、越中国新川郡河内村(現・富山市)で生まれました。播隆は伊吹山での修行の折に揖斐の地に招かれ、領主岡田善功(よしかつ)の家老、芝山長兵衛は1830(天保元)年、播隆のために阿弥陀堂を建てました。これが後の播隆院一心寺(揖斐川町三輪)で、西美濃三十三霊場第七札場になっています(現在は無住)。播隆上人は槍ケ岳開山の後、この阿弥陀寺に戻る途中、登山のけがが悪化して1840(天保11)年に太田(現・美濃加茂市)の脇本陣、林市左衛門宅で亡くなりました。播隆の墓は一心寺のほかに美濃太田、郷里の富山県にもあります。

「古往今来」の筆者による註記
❶旅順要塞の攻略は、日清・日露の両戦争で戦われました(旅順攻囲戦)。日清戦争では、1894年10月、日本軍は遼東半島に上陸して翌月に旅順の砲台群を陥落させました。その後ロシアは1898(明治31)年に露清間で締結した旅順大連租借条約で旅順を租借し、太平洋艦隊を常駐させて要塞を築きました。日本軍は1904(明治37)年12月、激戦の末に二〇三高地を占領してロシア艦隊を砲撃し、ロシア軍を降伏させました。
❷大垣分校は1880(明治13)年に岐阜県第一中学校大垣分校として開設されました。
❸この軍歌(作詞・山田美妙斎、作曲・小山作之助)は1891(明治24)年に発表されました。太平洋戦争の開戦頃になると古い曲とされましたが、ラジオ放送の影響などから太平洋戦争初期には再び流行し、例えば大本営発表では陸海軍合同の戦勝発表の前後に放送されました。  日露戦争の1904年には軍歌『日本陸軍』(作詞・大和田建樹、作曲・深沢登代吉)が発表されました。その一番(出征)の歌詞は「天に代わりて不義を討つ 忠勇無雙の我が兵は…」です。

参考文献
『岐高百年史』清 信重著(1973年)
曽山 毅、明治中期に形成された修学旅行と行軍の分離、玉川大学観光学部紀要、7、23~35(2019年)


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