古往今来

2026(令和8)年2月

 南北朝時代、土岐頼康(1318~1387)は足利尊氏・義詮(よしあきら)に協力し、1353(正平8・文和2)年に義詮が後光厳(ごこうごん)天皇に奉じて美濃に逃れた際に小島(おじま)と垂井に頓宮❶を造営しました。頼康はこうした軍功で美濃国守護となり、尾張・伊勢にも勢力を拡大しました。土岐家の盛衰を著した『土岐累代記』には斎藤道三や織田氏などに関する記述があります。その中の〈濃州稻葉山由來之事〉には「岐阜」の地名について次のように記されています。(元の文に区切りを入れました)
所謂ル岐山ト号ス麓ノ里ヲ岐阜ト号スル事ハ徃古ヨリノ称号ニテ 明應ヨリ永正迄ノ旧記ニノスル処ニシテ 后世織田家ノ名附ルト云事信スルニ不足 但一説徃古ハ加納ヲ沓井吉田号シ 岐阜ヲ今泉忠節井ノ口宗田ト云シヲ 織田家入城ノ時ニ及ンテ沓井吉田合テ加納ト云 今泉宗田迄ヲ岐阜ト称スト云々」❷
 厚見郡の今泉村・小熊村・忠節村・池ノ上村・早田村・明屋敷(めいやしき)村は〝輪中六ケ村〟とも呼ばれました。忠節村と明屋敷村は1875(明治8)年に合併して稲束村となり、旧城下町の古屋敷新田と中河原新田も同年に合併して富茂登(ふもと)村❸となりました。次いで1889(明治22)年7月には岐阜町・今泉村・富茂登村・稲束村・小熊村に加えて上加納村北部が合併して市制を施行し、岐阜市ができました。なお、上加納村は、瑞龍寺山の南から新荒田川にかけての地域で、稲葉郡に属します。
 岐阜町は、川湊から魚屋町、靭屋(うつぼや)町、米屋町を経て南へ加納宿に至る街道の周りに広がっていました。かつて城下町であった井の口❹は、金華山の麓から概ねこの街道までの範囲(古屋敷新田、中河原新田など)で、多くは山に続く荒廃地と畑でした。  岐阜町の中心には尾張藩の岐阜町奉行所がありました。『岐高百年史』には奉行所について次のように書かれています。――「靭屋町と米屋町の境界に入口があり、それを東へはいると、いまもある用水堀がその奉行所の門前を流れていて、その東、山にいたる一画(東西六〇間、南北一二二間の広大な土地)にあった。この門に門番の詰所があり、その奥にさらに武家づくりの長屋門があって、その奥に本玄関、脇玄関、書院その他。山にむかって奥庭、山の下に大きな池があり、この水はいまの妙照寺(松ケ枝町)❺の池につづき、かつての岐阜城の総濠(ぼり)であった。いま橿森あたりの山ぎわに残る水路は、この池につづいていたものである。」(24~25㌻)

岐阜町奉行所跡の案内板(令和7年10月・撮影)

岐阜町の西の端は矢島町の辺りで、ここから東に向かい山麓に至る用水堀が概ね岐阜町の南限でした。『岐高百年史』には更に「その南が小熊村。この小熊村は瑞龍寺山❻をはなれると、上加納村という、加納藩の領地であった。一面の田畑である。だから岐阜県庁❼は正確にいえば岐阜町のそとであり、(中略)岐阜町はまさに〝ネコのヒタイ〟ほどの小地域にすぎない」(24㌻)とあります。
 仮中学ができる前の岐阜町の教育機関については、「町人の町で文教にはめぐまれず、他藩の藩校をよそ目に見ながら、指をくわえていた。慶応四年、戊辰の役に近いころ、やっとこの奉行所の中に「教倫館」ができた。「坪数三〇」という。これは明治二年一二月、岐阜奉行所廃止とともに閉鎖されていた。岐阜町および小熊、今泉をふくめ、そのころ「私塾三、寺子屋六」と記録されている」(25㌻)とあります。

「古往今来」に筆者による註記
❶頓宮は仮宮、行宮(あんぐう)のことです。
❷明応は1492~1501年、永正は1504~1521年。沓井城は土岐氏の重臣、斎藤利永によって築かれました。関ケ原の戦の後、同じ場所に加納城が築かれたため、沓井城は「前期加納城」とも呼ばれます。
❸富茂登という地名は、例えば岐阜市立金華小学校(岐阜市大工町、2008(平成20)年以降は岐阜市立岐阜小学校)の前身の名称にも使われました。1873(明治6)年に御手洗(みたらし)に開校した有道義校は、同小学校の前身の一つで、1880(明治13)年に富茂登学校と称しました。
❹井の口(井口、井之口とも)は室町時代から戦国時代にかけての岐阜の旧称です。昭和初期まで、長良橋と鏡島の間の長良川は、古川(中央の流路)、古古川(ふるふるかわ、古川の北側の流路)、井川(古川の南側の流路、新川とも)の三つに分かれていました(他説もあります)。「井の口」とは井川の入り口にあたる長良川左岸の金華山西麓一帯のことでした。古川と古古川は、右岸の河川敷を活用する目的で締め切られ、その工事は1939(昭和14)年に完成しました。右岸堤防には「長良川上流改修記念碑」が建てられています。
❺三光山妙照寺は、1534(天文3)年に現在の岐阜市柳町付近に創建されました。その後、1600(慶長5)年に織田秀信(1580~1605)から竹中重治(通称・半兵衛、1544~1579)の屋敷跡(現在地、岐阜市梶川町)を寄進されて移転しました。
❻瑞龍寺(ずいりょうじ)山は、かつて上水道施設があったことから「水道山」とも呼ばれ、山の南麓には金寶山瑞龍禪寺(岐阜市寺町)があります。現在の駐車場の周辺にはかつてプラネタリウム(1958(昭和33)〜1984(昭和59)年)や観覧車があり、麓からのリフトもありました。瑞龍寺山へは、南東の麓にある橿森神社(岐阜市若宮町)から登山道があり、水道施設(配水場)跡の石垣がその途中に残っています。
❼当時の県庁は司町にあり、県庁の東が東津賀佐町、西が西津賀佐町でした。

参考文献
「土岐累代記」(寛政元年、写本)国立公文書館デジタルアーカイブ(http://www.digital.archives.go.jp)


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