古往今来

2024(令和6)年4月

第19話 ■岐阜高等女学校の校歌

 

 岐阜高等女学校(岐高女)は1900(明治33)年に岐阜市鶯谷の地に創立されました。1903(明治36)年から北野町校舎、1942(昭和17)年から雲雀ケ丘校舎を経て戦後を迎え、1948(昭和23)年に統合されて岐阜市大縄場の地に移りました。

岐阜縣岐阜高等女學校 校歌(作詞・佐佐木信綱、作曲・下總皖一)
 (一)あゝ すめらみ國榮ゆる御代に
    われら處女(をとめ)
    生れあひたる幸(さいわひ)
    胸の鏡と日々にあふぐ
    教育(をしへ)の道の勅語(みことのり)
 (二)見よ 稻葉山の姿は高し
    われら處女
    高く心を保たむ
    國の御爲(みため)に人の爲に
    力のかぎりつくさばや
 (三)開け 長良川の瀬の音(と)は清し
    われら處女
    清く心をみがかむ
    励めめ勤しみ操かたく
    明るき微笑(ゑまひ)うつくしく

 雑誌「藍汀(らんてい)」は岐高女学友会の雑誌で、1936(昭和11)年12月に創刊されました。藍川(らんせん)は長良川の雅称で、誌名は長良川の畔(ほとり)にある学校を表しています。
 岐高女の校歌について、校史資料室に所蔵している『藍汀・創刊號』(次の写真・左)には歌詞が校旗の写真と共に紹介され、その翌年に刊行された『藍汀・第二號』(写真・右)の巻頭には校歌制定の経緯を記した「校歌制定に至る顚末」が掲載されています。以下に「校歌制定に至る顚末」からご紹介します。

藍汀創刊号の表紙
藍汀第二号の表紙

 校歌や、校旗の制定は、本校に身をおく者の等しく待望久しいものがあつた。
 然るに校旗は、既に前年度において調製され、その体裁とその色相、共にわれらの岐高女魂をさながらに表彰する、洵に崇高善美の極致ともいふべきものである。
 今は校歌のみだ。茲においてか、「校歌を校歌を」の聲は、異口同音に絶叫さるゝに至つた。時恰も、佐佐木信綱博士❶が、市内某所に滞在中との報を耳にするや、乃ち學校長の命を奉じ、同博士を往訪、懇願するに本校ゝ歌作詞のことを以てした。
 而して、博士は這般❷劇務に忙殺されつゝあらるゝを、特にわれらの願意を諒とせられ易々快諾、至急作歌に関する材料をとのことであつた。こゝに於いて本校の校歴、本校の位置並に四圍の風光等について縷陳し且通知簿所載の本校ゝ訓及び本校生徒作詞音樂部作曲の「われ等高女」等をその資料として提供した。
 かくて待望日子を閲すること僅に旬日、博士作詞の本校ゝ歌はわれらのものとなつたのである。皆人一様の歡喜抃舞❸は言ふまでもない。
 抑ゝ本校としては、過去において校歌を持たなかつた。併し、無形の校歌は、確かに持つてゐたといふことはおほけなき❹例にしあれど、わが國憲法のそれの如きものである。即ち、不成文の校歌は、所謂岐高女魂の叫び聲を以て、不斷随處で高唱されてゐたのである。
 然るに、われらは茲に愈々成文の校歌を持つことになつた。而してこれが作曲は、東京音楽学校教授下總皖一氏❺の手によつてものされた。
 今やわれらは、この校歌のもとに、この校歌を高らかに歌ひ、本校の隆運をほがひ❻つゝ明るく、麗はしく高く、強く、學びの道に勤しむを得るに至つたのである。
 吾人は茲に聊か校歌制定に至る顛末を略述し、諸子とその喜びを共にし、兼ねて諸子の猛省を促さうとする❼ものである。  (杉原一來記)

「古往今来」の著者による註記
❶佐佐木信綱(ささき・のぶつな、1872~1963):三重県鈴鹿市生まれ。1934(昭和9)年帝国学士院会員、1937(昭和12)年第1回文化勲章。唱歌「夏は来ぬ」の詞(卯の花の匂う垣根にほととぎすも来鳴きて 忍音もらす夏は来ぬ」でも知られます。
❷這般(しゃはん):今般
❸抃舞(べんぶ):手を打って舞う様
❹おおけなし:(校歌と憲法を対置することの大胆さが)分不相応に甚だしい
❺下總皖一(しもふさ・かんいち、本名・覺三、1898~1962):埼玉県加須市生まれ。1920(大正9)年に東京音楽学校(現・東京芸術大学)を卒業。1934(昭和9)年助教授、1942(昭和17)年教授。門下生に團伊玖磨、芥川也寸志ら。童謡、唱歌、小中高校歌を多数作曲しました。
❻ほがふ(寿ふ、祝ふ):ことほぐ、いわう
❼猛省は「(これまでの経緯を)改めて省みてほしい」という意味であろう。

参考文献
「藍汀・創刊號」(岐阜縣立岐阜高等女學校學友会、1936年)
「藍汀・第二號」(岐阜縣立岐阜高等女學校學友会、1937年)


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