古往今来

2024(令和6)年5月

第20話 ■コンニャク(蒟蒻)版の教科書

 

 校史資料室にある岐中時代の教科書の中に、手書きの文字と図が薄紫色で印刷され、糸で綴じられた『生理學』があり、「編者 岐阜県尋常中学校教諭 農学士 小嶋銀吉君」と記されています。これは、明治20年代後半の卒業生で、大学を経て海軍造兵技師(「造兵」は兵器製造のこと)に勤務した人から岐中時代に使った教科書として寄贈されたものです。次の写真(右下隅は色が褪せています)は「脉管學 Angiology」の冒頭のページで、脉管(みゃっかん、脈管)すなわち循環系についての説明です。

教科書『生理學』より(校史資料室所蔵)

 これはヘクトグラフ(hectograph)と呼ばれる一種の平版(へいはん)印刷によるものです。平版印刷は、凹凸のある印刷原版を使う凹版印刷(グラビア印刷、銅版印刷など)や凸版印刷(木版印刷、活版印刷など)、孔を開けた印刷原版を使う孔版印刷(謄写版印刷など)とは異なり、親水性の版面を水などで湿してから親油性のインクを載せて画線部分だけにインクを付着させて印刷する方法で、かつては少部数の印刷のほか焼き物の絵付けにも使われました。 ヘクトグラフという名前は、印刷可能な枚数が100枚程度だったことから、ギリシア語で「百」を意味するεκατον(エカトン)に由来します。接頭辞としての「ヘクト」は、例えば圧力を表すヘクトパスカル(1㍱=100㎩)や面積を表すヘクタール(1㏊=100a)などでおなじみです。

 日本では、西洋から入ったヘクトグラフの技法が改良される際に、当初のゼラチンパッドが蒟蒻に見立てられて「蒟蒻版」と名付けられたようで、ゼリーグラフ(jellygraph)や寒天版という呼び名もあります。
 ヘクトグラフは、1880年代に考案されて実用化され、謄写版が登場するまで軽印刷の主流でした。その手順は、先ず、塩基性染料(メチルバイオレットやアニリンレッドを水、アルコールと混ぜたもの)でできたインクを含ませた筆記具や専用用紙、タイプライターリボンで筆記したものを印刷原版(マスター)とし、水や水性溶剤で湿らせたゼラチンパッド上に圧着してパッドにインクを転写します。次に、マスターを剥離してからパッドに印刷用紙を圧着して再度転写します。転写を二度行うため、マスターを鏡像で作成する必要はありません。
 パッドは、ゼラチン・グリセリン・硫酸バリウムを水に溶かして凝固させたもので、日本ではゼラチンの代用品として蒟蒻や寒天も使われました。使用後の原版は水や溶剤に浸してインクを除去するか、シートで表面を覆っておけば、しばらくの間は保存することができました。 ヘクトグラフでインクとして使われた塩基性染料は、pH指示薬や細胞染色液にも使われる有機化合物です。しかし紫外線による褪色が顕著で、紙質が酸性化する酸性紙の場合も変色しやすいことが短所でした。また、印刷原版が軟質であったために大量印刷には不向きで、漢籍などの大量印刷には、平版印刷でも硬質の石材を使う石版印刷(リトグラフ)が使われました。

 その一方で、ヘクトグラフは、簡便なことから、官公庁・学校・企業などで会議資料や内部資料の作成に昭和初期まで広く使われました。
 1906(明治39)年に発表された夏目漱石の小説『坊ちゃん』には、「先夜おれに対して無礼を働いた寄宿制の処分法に就ての会議」の場面に印刷物を表す言葉として「蒟蒻版」が登場します。主人公は「この場合の様な、誰が見たつて、不都合としか思はれない事件に会議をするのは暇潰しだ。誰が何と解釈したつて異説の出様筈がない。こんな明白なのは即座に校長が処分して仕舞へばいゝのに。随分決断のない事だ」と、端から憤慨に堪えない様子です。
――「校長は(中略)自分の前にある紫の伏紗包をほどいて、蒟蒻版の様な者を読んで居る。」「では会議を開きますと狸は先づ書記の川村君に蒟蒻版を配付させる。見ると最初が処分の件、次が生徒取締の件、其他二三ケ条である。
 東京電機大学出版局(1907(明治40)年に設立)のホームページには次のように記されています。
――「設立当時、電気工学といえば最新の学問分野であり、その教科書はほとんどが洋書で、日本語で書かれたものはわずか2冊しかなかったという。(中略)当時は謄写版もない時代で、最初の仕事は、当日の講義内容をあらかじめ蒟蒻版で印刷した教科書の作成であった。明治43年頃になって出版局の発行体制も整った。」 
 校史資料室にある教科書『生理學』も、これらと同時期のものと推察されます。

参考文献
「漱石全集 第二巻」夏目金之助著(岩波書店、1994年)


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