
2025(令和7)年2月
高木貞治(1875~1960)は、美濃国大野郡数屋(かずや)村(現・本巣市)に生まれ、岐阜尋常中学校を経て第三高等中学校(現・京都大学)へ進み、1898(明治31)年に帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)数学科を卒業してからドイツへ3年間留学しました。
ドイツでは、ベルリン大学でF.フロベニウス、ゲッティンゲン大学でD.ヒルベルトとF.クラインに学び、帰国1年前の1900(明治33)年には東京帝国大学助教授となり、1903(明治36)年に学位論文を提出して、その翌年に東京帝国大学の教授となりました。
その後の髙木は数学者として国際的な活躍を重ね、論文「相対アーベル数体の一理論について」は1920(大正9)年に発表され、彼は代数的整数論の研究で類体論を確立しました。高木はまた、『解析概論』、『初等整数論講義』、『代数的整数論』など多くの教科書を著しました。このうち『解析概論』は解析学入門のための名著として知られています。
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『學術講談會雑誌』には高木貞治による「修學旅行紀事」が掲載されています(第四號の「雑録」、26~27㌻)。ここに引用した前半では旅について語られ、後半には旅程が要約されています。なお、以下の引用では、変体仮名は現在の平仮名に変え、濁点の有無は原文に従いました。旧字体漢字のうち、ワープロで表記できるものは原文のままとし、原文には句読点が無いので適宜補いました。
――世間に有益なる事甚だ多けれど、旅行ほど有益なるものはあらじ。人生に快樂なる事亦頗る多けれど、旅行ほど快樂なるものはあらじ。名山川を跋渉して其靈氣を吸ひ、好風景を賞翫して我胸襟を爽にす、是れ即其の快樂なり。或は古趾遺跡を尋ねて或は風俗人情を察して地理歴史の參考となし、或は奇草木を摘採し或は異昆虫を捕檎して生物學研究の材料となし、或は氣象を考へ地質を査し自然界に起る現象を觀察して物理學の智識を實地に拾得す、是れ即其の利益なり况んや。同窓同學の友、手を携へて共に旅行するに於ては其快なるもの一層快に、其有益なるもの亦一層有益なるべし。柳宗元嘗て言へることあり。曰く 夫レ氣煩シケレバ則チ慮亂レ。視壅レバ則チ志滯ル。君子必ズ有リ遊息之物、高明之具。使シム之ヲシテ淸寧平夷恒ニ若クナヲ有シカ餘リ。然シテ後氣達シ而メ理明ナリ と。余輩學生たるもの宜しく此語を記憶すべきなり。西人の諺に曰く
勉むべきとき 善く勉め
遊ぶべきとき 善く遊べ
是ぞ日ごとの 法(おきて)なる
と。(後略)
――今茲庚寅十月、我校例に從ふて秋季遠足として飛騨地方に旅行す。十月廿一日を以て岐阜を發し、翌月一日を以て歸る。其間凡て十二日、行程八十餘里。我校か舉行せし旅行中、之に及ふものなし。今其の路次を掲くれば左の如し
廿一日 岐阜出發下ノ保村泊
廿二日 金山町泊
廿三日 下呂村泊 廿四日 小坂村泊
廿五日 高山町泊 廿六日 船津町泊
廿七日 船津町滯在 廿八日 高山町泊
廿九日 三日町泊 三十日 大原村泊
卅一日 八幡町泊 一日 歸校 (以下次號)
次に、『學術講談會雑誌』の第六號「雑録」(34~36㌻)は、第四號に続くもので、旅先の景色や旅先での出来事、そして彼の思いが克明に記され、当時の「修学旅行」の雰囲気が鮮やかに伝わってきます。その冒頭部をご紹介します。
――廿一日 午前第七時、同行者悉く本校運動塲に集る。會するもの、職員九人、生徒四十一人、喇叭手使丁を合せて總員五十五人なり。乃隊伍を整へて發す。此日天氣淸朗碧空拭ふが如く復一點の雲埃を留めず、輕風微かに來り心氣頗る爽快なり。衆皆踊躍劉喨(りゅうりょう)たる喇叭(らっぱ)の聲に歩調を整へ、隊伍正々恰も一隊の精兵陣を出するに似たり。北一色、野一色、日野、岩田、の諸村を經て芥見村に達す、時正に十時なり。村を出つれは一堤あり、其上小渠(きょ)を通す、蓋し灌漑用の疏水路なり。此時未だ水を通せず工事尚竣らざるを以てか、乃ち隊を解きて堤上に憩ふ。敎諭麻生繁雄氏氣象觀測を成す。終て乃發す。十一時半、白金村に達し路傍の一旅店に就きて午飯を喫す。(後略)
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本巣市にある「富有柿の里 富有柿センター」(本巣市上保)の3階には高木貞治博士記念室があり、生い立ちと共に遺品・逸話などが紹介されています。また、同センターの1階には「数学ワンダーランド ~数学おもしろ体験館~」が設けられていて、数学の面白さや不思議さを体験的に学ぶことができます。

(扉が開いている奥の部屋、令和6年11月・撮影)
〈高木貞治については第30話に続きます〉
参考文献
「高木貞治とその時代 西欧近代の数学と日本」高瀬正仁著(東京大学出版会、2014年)
「學術講談會雑誌」第四號、第六號
岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内