古往今来

2026(令和8)年6月

 大垣藩初代藩主の戸田氏鉄(うじかね)は教育に力を入れ,藩には教育を重んじる気風が受け継がれました。1838(天保9)年,第八代藩主の戸田氏庸(うじつね)は藩士の子弟を教育するために藩士岡田主鈴(しゅれい)の私塾を公立化し,1840(天保11)年に藩の学問所を開きました。学問所は後に致道館,敬教堂,学館と改称されました。第十代藩主の氏彬(うじあきら)のときには孔子像を祀った大成殿が設けられ,雷除けとして〝剣の木〟とされるトネリコ(梣)が植えられました。
 戸田家には上屋敷,中屋敷,下屋敷があり,下屋敷は現在の市街地西北の室本町(大垣市文化会館の敷地一帯)にありました。後に,下屋敷の跡地は大垣市に提供され,市ではその一部を公売に出して学校建設の資金とし,残りの土地に学校が建てられました。
 学問所は明治維新後に文学校(北校)と武学校(南校)に分けられました。前者は実科女学校を経て高等女学校となり,後者は高等小学校から現在の大垣市立興文小学校になりました。大垣市保健センター(大垣市東外側町)の敷地内には石碑「史蹟 大垣藩黌敬教堂跡」が建っています。ここは大垣城の北に位置し,水門川に架かる龍ノ口橋を渡ると大垣大神宮(郭町)を経て大垣城の辰の口門❶に至ります。

石碑「史蹟 大垣藩黌敬教堂跡」(令和8年1月・撮影)

 学制を受けて1873(明治6)年,興文小学義校が設置されました。小学義校は,入学者が多いために興文第一義校(旧・南校),竹島町に興文第二義校(旧・北校),船町に興文第三義校,伝馬町に興文第四義校が分置されました。
 1894(明治27)年4月に認可された岐阜県尋常中学校大垣分校は,興文尋常小学校を仮校舎として5月に開校しました。同校は,1895(明治28)年に郭町に校舎を新築して移転し,1896(明治29)年に岐阜県大垣尋常中学校と改称され,次いで1899(明治32)年に岐阜県大垣中学校と改称されました。岐阜県大垣中学校は1901(明治34)年に岐阜県立大垣中学校と改称され,校舎は下屋敷跡に新築されて郭町から移転しました。1907(明治40)年のことでした。
 以降,改称や室町への校舎新築移転などを経て終戦を迎え,1948(昭和23)年8月に当時の岐阜県大垣高等学校が岐阜県大垣女子高等学校❷と統合しました❸。先述の龍ノ口橋のたもとには石碑「大垣高等女学校発祥の地」もあります。

「古往今来」の筆者による註記
❶大垣城は西美濃の要衝であり,その入り口は,辰の口門のほかに大手門・南口門・柳口門・竹橋口門・清水口門・小橋口門があって,「七口之門」と呼ばれました。
❷岐阜県大垣女子高等学校は,1900(明治33)年に設立された岐阜県安八郡大垣高等女学校(興文高等小学校の教室を借用して授業を開始)を前身とし,その翌年には岐阜県大垣町立高等女学校と改称して郭町校舎に移転しました。その後,改称を経て,1948年に新制高校として岐阜県大垣女子高等学校になりました。
❸統合によってできた岐阜県立大垣高等学校は,校舎を藤江町に置き,1949(昭和24)年に岐阜県立大垣北高等学校となりました。次いで同校は1961(昭和36)年に中川町の現在地に移転しました。

参考文献
「わがまち興文」(大垣市立興文小学校)


岐阜県立岐阜高等学校・同窓会事務局 岐阜市大縄場3-1 岐阜高校・校史資料室内